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意識研 開催報告 ── 2023年度(令和5年度) テーマ2

ウェルビーイングとテクノロジー

話題提供者:渡邊淳司(NTTコミュニケーション科学基礎研究所)|連続研究会・全3回

ウェルビーイングとはなにか?

2023.7.28(意識研 #004)

アジェンダ

①幸福とウェルビーイング  快・満足か、人生の意味か ②経験要請と経験機械  ・経験要請:ウェルビーイングには経験(意識)が不可欠だ    哲学的ゾンビはウェルビーイングと無縁  ・経験機械(ノージック『 アナーキー・国家・ユートピア』)    意識だけでは、ウェルビーイングは成立しない    ウェルビーイングには実在が必要だ    VRも現実と遜色ないリアリティだ(チャーマーズ『リアリティ+』) ③意識と時定数  意識と無意識・身体性・物質性の違いは時定数の大きさの違いではないか  意識の時定数は自由の地平を切り開く ④私のウェルビーイングか、私たちのウェルビーイングか  ・その違いは何か  ・私のウェルビーイング → 利己主義に陥る危険性?  ・私たちのウェルビーイング → 強制的利他主義に陥る危険性? ⑤ウェルビーイングにはどんな社会が必要か  ・個人の自律性(主体性)はつねに(戦争下でも)不可欠か?   自律性を抑制する権力関係は不可避か?  ・「君子の交わりは淡きこと水のごとし」の人間関係とは何か?   ウェルビーイングには親密な人間関係・コミュニティが必要か  ・生殖からの解放は可能か   村田沙耶香『消滅世界』   市橋伯一『増えるものたちの進化生物学』  ・労働(経済的な労働)からの解放は可能か   資本主義からの脱却(脱成長)は可能か      ジェイソン・ヒッケル『資本主義の次に来る世界』 ⑥苦悩は生命体の必然か?  ・増えることを運命づけられた生命体は、増えるために苦悩せざるをえないのか   市橋伯一『増えるものたちの進化生物学』  ・だとしても、苦悩は人生の意味にとって不可欠の要素ではないか     人生七味唐辛子

所感(信原幸弘)

 ウェルビーイング(たんなる幸せではなく、人生の善いあり方)にとって、意識は必要不可欠であるように思われる。この世界におよそ意識なるものがなければ、ウェルビーイングは存在しえないだろう。物質がただ運動しているだけで、生命も意識もない世界を考えてみよう。そこには、ウェルビーイングであるようなあり方も、ウェルビーイングでないようなあり方も、存在しないだろう。つまり、そこはウェルビーイングとは「無縁」な世界であろう。  人間が存在する世界でも、その世界の人間がすべて意識を欠くなら、つまり全員「哲学的ゾンビ」であるなら、やはりそこにはウェルビーイングは存在しないだろう。ウェルビーイングなあり方やそうでないあり方が存在するためには、快苦を感じ、満足感を覚えるような存在、すなわち意識を有するものが存在しなければならないように思われる。  なぜウェルビーイングには意識が不可欠なのだろうか。意識はウェルビーイングが成立するのに必要などんな条件を提供するのだろうか。一見、快がウェルビーイングを高め、苦がウェルビーイングを損ねるものであるから、ウェルビーイングには快苦が必要なのだと言えそうに思われる。「有情」か「非情」か(快苦を感じるかどうか)でウェルビーイングを問題にすべき存在であるかどうかを分けようとするのも、そうした考え方から出てくるのだろう。しかし、薬物で快感を得ても、ウェルビーイングを高めることにはならないし、逆に怪我をして苦痛を感じても、苦痛を感じるからこそ、怪我を治療するのであれば、苦痛はウェルビーイングを損ねるどころか、むしろ高めるであろう。  快苦ももちろんウェルビーイングに何らかの仕方で関係するだろうが、ウェルビーイングの地平をまさに切り開くのは意識の別の側面であるように思われる。それは与えられた刺激にたいして予測不能な反応を成立させる意識の働きだ。意識は刺激に機械的に反応するのではなく、記憶によって過去の経験をよびおこし、予測不能な反応を成立させる。それは刺激にたいする「自由な応答」を可能にするのだ。意識によって切り開かれた「自由の領域」こそ、ウェルビーイングを問題にしうる地平ではないだろうか。  すべてが機械的に決定されたあり方をしているのであれば、どんなあり方もウェルビーイングとは無縁であろう。つまり、ウェルビーイングかどうかを問うことは意味をなさない。意識によって「自由の領域」が切り開かれてこそ、そこで成立する自由な応答やその帰結についてウェルビーイングを問題にする余地が出てくるのである。  意識がウェルビーイングに不可欠なのは、意識によって自由の領域が成立するからである。意識は記憶によって過去の経験をよびおこし、そうすることで自由の領域を切り開く。しかし、記憶によって過去の経験をよびおこすのは意識だけではない。無意識もまたそうするし、そうすることで刺激にたいする反応を変化させる。とはいえ、無意識は刺激にたいする「予測不能で自由な応答」を可能にするわけではない。それは過去の経験をよびおこすが、そうであっても定型的な反応をもたらすだけである。意識と無意識は、どちらも過去の経験をよびおこすとはいえ、そのよびおこし方に重要な違いがあるのである。  では、その違いとは何だろうか。意識は過去の経験を「自在に」よびおこすのにたいして、無意識は決まりきった仕方でよびおこす。ひとまず、こう言うことができよう。しかし、「自在に」よびおこすとはどのようなことだろうか。これを明らかにしないかぎり、意識がいかにして「自由の領域」を切り開くかを明らかにしたことにはならない。従って、まだまだ今後の探究が必要だが、とりあえずここでは、つぎのように言っておくことで満足することとしたい。すなわち、意識は自由の領域を可能にすることで、ウェルビーイングの地平を切り開くのだ、と。

テクノロジーの罠

2023.8.22(意識研 #005)

アジェンダ

◆総論  テクノロジーには、人間の自然な傾向性により、ウェルビーイングに関してもそれを損ねるいろいろな罠が潜んでいるが、その罠に気づくこと(罠を「意識する」こと)によって、罠の克服は可能だ(これは楽観的すぎるだろうが、挑戦意欲を削がないために、あえて楽観から始める) ◆各論 ①便利さの罠 ・テクノロジーは注目タスクに関する便利さを高めすぎて、周辺タスクに関する便利さを 犠牲にする傾向があるのではないか  → ここから「不便益テクノロジー」という考えが生まれる:注目タスクに関してあ   えて不便にすることによって、周辺タスクに関する便利さを向上させる(白川智弘「第11章 生命システム論から不便益を捉え直す:不便益の実在証明」川上浩司『不便益―手間をかけるシステムのデザイン―』pp.203-4) ・「便利なテクノロジーも、その利用者が苦労する機会を過度に奪っていないだろうか」 (D・チェンの発言、『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』p.297)    - ここで、苦労する機会とは自律性を発揮する機会、すなわち自分のウェルビーイングを自分で作り出す機会である    - ウェルビーイングにはこのような自律性が必要だ ・テクノロジーは近視眼的ではないか:たとえば、長期的な利益より目先の利益を優先する傾向(価値の時間割引に同調する傾向)があるのではないか ②テクノロジーとゲシュテル(駆り立て) ・我々はテクノロジーを自由に利用するというより、テクノロジーを利用するように駆り立てられているのでないか ・テクノロジーは我々を何かに駆り立てるという本性があり、それゆえ、その本性上、我々の自律性(自由)を損なうものではないか ・ゲシュテルは世界における我々の存在(「世界内存在」)の一つのあり方(存在様式)であり、ゲシュテルの内に生きることは、それ特有の「実存的感情」(駆り立てられ、急き立てられる感じ)を伴う:逆に「ボケッと生きる」(脱ゲシュテル)は反対の実存的感情(悠久感)を伴う ・脱ゲシュテルは可能だろうか:とくにテクノロジーによって強化されたゲシュテルから我々は脱出できるだろうか→脱出のためのテクノロジーはありうるか ③測定データに基づく介入の罠 ・ウェルビーイング状態(各人の人生の善い/悪いあり方)に関する測定データに基づいてウェルビーイングを向上させるための何らかの介入を行うことは、かえって原理的にウェルビーイングを損ねることになりはしないだろうか ・なぜなら、ウェルビーイング状態は原理的に完全には測定できないからである   - ウェルビーイング状態は人生の善さ/悪さのあり方であり、人生はいろいろな要素 から成るが、それらの要素には還元できない「全体論的性格」(諸要素が物語的に連関するタイプの全体性)をもつ   - 従って、ウェルビーイングもその要素に還元できない全体論的性格をもち、各要素は他の要素との関係によってウェルビーイングの効果が決まる「全体論的要素」であって、他の要素とは独立にその効果が決まる「原子論的要素」ではない   - このような全体論的性格をもつウェルビーイング状態を原子論的要素の集まりとして測定することは原理的に不可能だ ・ウェルビーイング状態に関する測定データをウェルビーイングの向上に向けた介入に利用するためには、測定データから人生のあり方およびその人生のウェルビーイング状態を解釈する(読み取る)ことが必要だ ・この解釈はさまざまな人生とそのウェルビーイング状態に関して多くの経験を積むことによってはじめて可能だ ・各人のウェルビーイング状態ではなく、あるタイプの人々のウェルビーイング状態の平均を問題にして、その平均の向上をはかるのであれば、測定データの平均値から一定の介入の仕方を導き出し、それをそれらの人たちに一様に適用するということが可能だろう(じっさい、私たちにはウェルビーイングの諸要素の「標準パッケージ」を好む心理的傾向もある――「あんなふうになりたい) ・しかし、個人ごとのウェルビーイング(本来、ウェルビーイングは個人ごとだ)を問題 にするのであれば、測定データから各人のウェルビーイング状態を解釈して、そこからどう介入するかを導き出す必要がある:つまりレディメイド(ステレオタイプ)の介入ではなく、オーダーメイド(パーソナライズドタイプ)の介入が必要だ(Cf. 田中浩也「「生きるための欲求」を引き出すデジタルファブリケーション」『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』→個人ごとの欲求および喚起された潜在欲求の充足を可能にするデジタルファブリケーションによる個人ごとのウェルビーイングの向上) ④テクノロジーが可能にする新たな生存様式と人間的諸価値の解体 ・新たな生存様式(生殖や労働からの解放など)は人間的諸価値(ウェルビーイングはその一つ)を解体するのではないか ・とはいえ、新たな生存様式を得た人間がもはや人間でないとすれば、人間的諸価値の解体はそのような「超人間」にとってむしろ善いことではないか ⑤潜在的能力の可視化の罠 ・潜在的能力を可視化してその欠陥を補うテクノロジーは、テクノロジーによる潜在的能力の操作を生み、かえって自律性を損ねることになる恐れがあるのではないか ⑥個人データの利活用はプライバシーや自律性を侵害するのではないか ・個人データの共有は人間同士の「良いつながり」に必要な反面、個人のプライバシーや自律性を侵害する恐れがある→どう調停すればよいか ・ネット時代では、個人データは膨大であり、当人による全面的管理はもはや不可能だが、 そうかといってパーソナルAIに管理を委ねても大丈夫なのだろうか ⑦ウェルビーイングの優劣 ・各人は自分固有のニッチを生きているのであって、そこにウェルビーイングを実現するうえでの優劣(有利/不利)はない ・Cf. 「トリはトリとして、ケモノはケモノとして、それぞれのニッチを生きているのであって、そこに絶対的な優劣は存在しない」(白川智弘「第11章 生命システム論から不便益を捉え直す:不便益の実在証明」川上浩司『不便益―手間をかけるシステムのデザイン―』p.199) ⑧テクノロジーと退屈 ・テクノロジーはしばしば退屈を紛らわすもの(気晴らし)を提供するが、そうすることでかえって深い退屈(真の満足からの疎外状態)をもたらすのではないか(appetiteを育てよ[小腹が空いたら食べてしまうのではなく、腹ペコになるまで待ってから食べる、など]――ジョージ・エインズリー『誘惑される意志』) ・テクノロジーは真の満足より気晴らしの提供に向いているのではないか ⑨テクノロジーのデュアル・ユース(両刃の剣)問題 ・良い目的のために開発されたテクノロジーもつねに悪用が可能だ ・悪用を防ぐテクノロジーもまた悪用可能だ ・テクノロジーの悪用問題は解決可能か

所感(信原幸弘)

 テクノロジーによって私たちの暮らしはずいぶん便利になった。洗濯機ができて、ほとんど機械が洗濯をしてくれるし、自動車ができて、どこにでもすぐ行けるようになった。昔、手書きで卒論や修論を書いていたころは、推敲や清書が本当にたいへんだったが、いまはワープロで簡単にできる。  しかし、テクノロジーの便利さには、重大な罠がある。しばしば指摘されるように、テクノロジーは近視眼的だ。あることには効果があっても、他のことは犠牲にされがちだ。ドラえもんの「ハリ千本バッジ」は、ウソをついた相手にそのウソを本当に実行させてしまうという、だまされやすい人にはじつに有り難い道具だ。貸すつもりもないのに「おもちゃ、貸してあげるよ」と相手が言うと、相手は本当に貸さざるをえなくなる。このバッジを付けていれば、もうだまされることはない。しかし、その反面、本気でないのに「秘密をばらす」と言う相手には、残念ながら、本当に秘密をばらされてしまう。  人間の欲望は複雑だ。一つの欲望を満たそうとすると、他の欲望に悪影響が及ぶ。そこで、すべての欲望を考慮して、欲望全体の満足度を最大にすることが求められる。しかし、一つの欲望を満たすテクノロジーは比較的考えやすいが、多様な欲望全体の満足度を最大にするようなテクノロジーは見出しがたい。どこにでもすぐに行け、それでも運動不足にならないようなテクノロジーとはどのようなものだろうか。  一つのテクノロジーで一つの欲望を満たしても、他の欲望が犠牲になると、犠牲になった欲望は当然ことながら、充足を求めて声を挙げ、新たなテクノロジーの開発を要求する。こうしてつぎつぎと新たなテクノロジーへの要求が生まれ、それに応えるテクノロジーが開発される。  これはおそらく果てしなき開発となろう。いや、それどころか、開発へと否応なく「駆り立てられる」開発となろう。一つのテクノロジーが開発されると、一つの欲望が満たされるが、他の欲望が犠牲にされるので、新たなテクノロジーがどうしても開発されざるをえない。こうして開発へと駆り立てられるのだ。テクノロジーの開発をめぐる「競争」も開発を駆り立てるが、競争がなくても、テクノロジーは一つの欲望のために他の欲望を犠牲にするというその構造的な特性ゆえに、開発への駆り立てが生じるのだ。  このような「駆り立て」から逃れるためには、他の欲望を犠牲にするテクノロジーの開発をやめなければならないだろう。すべての欲望を円満に満たすようなテクノロジーの開発が求められる。しかし、一つのテクノロジーは一つの欲望を満たすのには向いているが、すべての欲望を円満に満たすのには向いていない。そうだとすれば、一つのテクノロジーではなく、複数のテクノロジーからなる「テクノロジー体系」を開発することが必要となるだろう。  じっさい、私たちは膨大な数のテクノロジーからなる「テクノロジー体系」に囲まれて生きている。現在、私たちのたいていの欲望がまずまず満たされているとすれば、それは私たちを取り囲むテクノロジー体系がそこそこ良い体系になっているからだろう。この体系をさらに良くしようとすれば、欲望を一つずつさらに良く満たすテクノロジーを個別に開発するのではなく、すべての欲望を考慮して、欲望全体をさらに良く満たすテクノロジー体系を開発しなければならない。私たちには自分たちの欲望とテクノロジーについて「全体論的な考慮」を行うことが求められている。  しかし、このような全体論的な考慮は、限られた能力しかもたない人間にとってそもそも可能なのだろうか。それが可能でないからこそ、一つの欲望を満たすために一つのテクノロジーを開発し、それによって犠牲となった他の欲望の叫びに応じて、また新たな一つのテクノロジーを開発せざるをえないのではないか。それが「駆り立て」になるとすれば、テクノロジーの開発は「駆り立て」にならざるをえないのではないか。  たしかに私たちの欲望とテクノロジーにかんする全体論的な考慮は、人間の能力を超えているかもしれない。しかし、そうだとしても、一つのテクノロジーを開発したせいで、つぎのテクノロジーの開発に駆り立てられるというあり方から逃れる道は他に存在するように思われる。それは「ほどほど主義」である。一つの欲望を「過激」に満たすテクノロジー(圧倒的に便利な道具、途方もなく効果的な装置、目を見張る斬新な器具)を開発するのではなく、「ほどほど」に満たすテクノロジーを開発するのだ。そうすれば、他の欲望をそれほど大きく犠牲にすることがなく、それゆえその不満の声に応えるのにそれほど急かされることもない。「ゆっくり」と新たなテクノロジーを開発していけばよい。  全体論的な考慮がむずかしい場合は、欲望を「ほどほど」に満たすテクノロジーをゆっくり開発するという「ほどほど主義」を採用することができよう。多様な欲望をもちながらも限られた能力しかもたない人間には、何事もほどほどにするという戦略をとることによって初めて、「悠久」の実存的感情に支えられた、世界との「悠々自適」の交わりが可能になるだろう。

ウェルビーイングを切り開くテクノロジー

2023.9.20(意識研 #006)

アジェンダ

総論  取り上げるそれぞれのウェルビーイング・テクノロジーについて、  ・解説を行う(10分)  ・当日体験できるテクノロジーについては体験を行う(20分)  ・ウェルビーイングの観点から議論する(30分) 各論:取り上げるテクノロジーと論点 ◆心臓ピクニック ・存在の内在的価値とは何か   - 「生命として存在していること自体」の価値は内在的価値とされるが、この内在的   価値とは何だろうか   - 心臓ピクニックは生命的存在の内在的価値にどう寄与するか:その価値を生み出すのか、その価値の発見/認識を助けるのか、その価値の承認を促すのか ・自分事として感じるとは?   - 自身や他者の存在を「自分事」として感じるとはどのようなことか   - 心臓ピクニックは自身や他者の存在を自分事として感じることにどう寄与するのか ・存在の内在的価値と独立自存性   - 存在の内在的価値は、存在が他の諸存在から独立自存しており、そのような独立自存的な存在(すなわち実体的存在)それ自体に備わる価値なのか   - 存在の内在的価値が独立自存的な存在の価値ではなく、関係依存的な存在(すなわち縁起的存在)の価値だとすれば、関係依存的存在は「存在それ自体」というような性格をもたないようにみえるので、存在それ自体の価値である内在的価値をもちうるのだろうか   - 独立自存的な存在を「自分事」として感じることは可能なのだろうか   - 逆に、関係依存的な存在を「自分事」として感じないことは可能なのだろうか ・尊重とは?   - 他者の価値観/大事なものを尊重するというのはどのようなことか   - 自分と他者の存在の内在的価値を認めあうことは、そのような尊重にどうつながるのだろうか ・心臓ボックスに生命は宿るか   - 心臓ピクニックで、最後に心臓ボックスの電源を切るときに「止めるのが怖い」と感じる人は、心臓ボックスに対して生命的なものの思い入れを持つに至ったようだが、この思い入れはたんなる錯覚ないし誤信念(例えば、心臓ボックスへの生きた心臓の「投影」)にすぎないのか   - 錯覚や誤信念でないとすれば、心臓ボックスへの「生命の思い入れ」とは何であろうか ◆身体翻訳 ・スポーツ翻訳は何の翻訳か   - トップ選手が感じている「面白さ」の翻訳なのか   - それとも、競技の最中に感じている運動の「クオリア」の翻訳か   - クオリアだとすれば、そもそもクオリアは翻訳可能なのか ・翻訳の「正しさ」   - スポーツ翻訳はふだん体験できない競技を体験できるようにする「面白ゲームづくり」ではなく、絶対的ではないものの、厳密な正しさを目指すが、ここでの「正しさ」とは厳密には何か:それは文章の翻訳の場合と同じ意味での正しさだろうか   - しかし、そもそも文章の翻訳の「正しさ」とは何か:それは意味の同一性の保持か   - スポーツ翻訳の正しさは誰によってどのようにして保証されるのか:そもそも、そのような保証は可能か、たかだか「仮保証」が可能であるにすぎないのではないか ・クリエイティビティ   - 翻訳に内在するクリエイティビティは翻訳でない活動に内在するクリエイティビティとはどう異なるのだろうか   - 例えば、翻訳詩をつくるのと翻訳でない詩をつくるのとでは、どうクリエイティビティに違いがあるのか ・メディアでの「見せ方」   - テレビなどでのスポーツの「見せ方」はスポーツ翻訳の観点から大いに問題があるように思われるが、それはどのような問題だろうか ・スポーツとの接し方   - スポーツ翻訳はスポーツとの接し方の一つであり、ほかにも有意味な接し方がいろいろなあるが、その中でスポーツ翻訳はどのような特徴をもった接し方であろうか   - スポーツ翻訳を通じてスポーツへの接し方を獲得しないことは「人生の損失」であると言えるだろうが、それはどのような意味で損失なのだろうか ◆ウェルビーイングカード ・カードの占い的利用とウェルビーイング   - カードを日々の占いのように、毎日、数枚引いて、そのテーマに焦点を合わせて生きていくことは、はたしてウェルビーイングを高めるのだろうか ・占いとウェルビーイング   - そもそも占いを信じる人は、その不合理な信念によってウェルビーイングを損ねているのではないか   - そうでないとすれば、不合理な信念はいかにしてウェルビーイングに寄与するのか(パスカルの信仰のすすめ:神が存在する証拠や根拠はないが、神を信じると幸せになるから、神を信じよう ← しかしなぜ、証拠や根拠を欠くという点で不合理な神への信仰が幸せをもたらすのだろうか)

所感(信原幸弘)

 生きているということは、心臓が動いていることだ。古くからそう感じられてきたし、今もそれはあまり変わらないだろう。それくらい心臓の鼓動と生命の関係は深い。聴診器で他人の心臓の音を聴くと、おおっ、生きているな、とちょっと感動する。自分の心臓の音を聴くと、ちゃんと動いているな、とホッとする(私の場合)。  心臓ピクニックは、聴診器を心臓ボックスにつないで、心臓の鼓動を心臓ボックスの振動に変換する。したがって、この装置を使うと、聴診器から心臓の音が聞こえると同時に、心臓の鼓動が心臓ボックスの振動として手に感じられる。つまり、音信号だけではなく、触覚信号も伝わるのだ。そのリアルさに驚きを覚える。  また、心臓ピクニックは心臓の鼓動を心臓ボックスに記録して、あとで再生することもできる。再生時は、心臓とつながっていないのに、心臓ボックスが振動する。その心臓ボックスに生命を感じる人もいるようだ。そのような人は、心臓ボックスの電源を切ってその振動を止めるのを「怖い」と感じるそうだ。  簡単な装置ながら、心臓ピクニックは心臓の鼓動を心臓ボックスへと「外在化」することでじつにリアルに心臓の存在を感じさせ、ひいては生命の存在を実感させる。しかもこのようにして感じられる生命の存在は、そのまま「尊いもの」と感じられる。生きていることはそれだけで尊い。他のどんなことにも役立たなくても、ただそれだけで価値がある。単独で生きていようが、他の人と協力しあいながら生きていようが、ともかく生きていることそれ自体に価値がある。つまり「内在的価値」がある。そう感じさせられる。  生命は尊い。ただし、心臓ピクニックはたんに生命一般が尊いというだけではなく、いま自分が聴覚的かつ触覚的に感じている「この命」が尊いとも感じさせてくれる。自分の心臓を感じるときは、まさに自分の命が尊いと感じられ、他人の心臓を感じるときは、その他人の命が尊いと感じられる。つまり、かけがえのないこの命、他の何ものにも代えられないこの命が尊いと感じられるのだ。  これには、心臓ピクニックで感じられる聴覚的な心音と触覚的な鼓動が人によって異なることがおおいに関係していそうだ。心音と鼓動は人によってかなり異なる。その違いに気づくと、心音と鼓動がその人特有のものに思えてきて、ひいてはその人の生命がその人特有のかけがえのないものに思えてくる。心臓ピクニックはこのような各自の生命のかけがえのなさを改めて感じさせてくれるのである。  ただし、心臓ピクニックの装置を使いながら人と会話するのは、ちょっと考えものだろう。たしかにこの装置を使うと、相手の気持ちやその変化が生き生きと伝わってきて、相手の気持ちを誤解ないし無視した会話になるのを避けられるかもしれない。しかし、知らなくてもよいような気持ちまで感じ取れてしまい、気まずくなったり、気分を害したりすることも起こりうる。まさに「過ぎたるは及ばざるがごとし」だ。私たちには「適当な距離」というものが必要だ。  善く生きるためには、私たちはたしかに人と協力しあったり、心を通わせたりすることが不可欠である。何でも自力で行い、孤独に生きることは、ウェルビーイングを大きく損ねるだろう。もちろん、対人恐怖症のような精神的な病のため、他者との協力や意思疎通に甚大な苦痛を覚える人は、単独で生きるほうがウェルビーイングを高めることになるかもしれない。しかし、そのような特別な理由がなければ、他者との協力や意思疎通はウェルビーイングの重要な要素である。たしかにそうではあるが、それでも「ほどほど」が重要だ。自分というものがなくなってしまうような他者との一体化は、善き生を根本的に損ねるだろう。たとえ自分を失わないとしても、適当な距離が取れなければ、やはり善き生を損ねるだろう。心臓ピクニックに限らないが、ウェルビーイングを高めるようにうまくテクノロジーを利用するのは、思いのほか難しいしいものである。

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