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意識研 開催報告 ── 2023年度(令和5年度) テーマ3
マインドフルネス
話題提供者:藤野正寛(NTTコミュニケーション科学基礎研究所)|連続研究会・全3回
マインドフルネスは意識をどう変容させるか
2023.10.11(意識研 #007)
アジェンダ
・マインドフルネスとは何か
レクチャー(15分)と質疑応答
ありままに気づくこと、無常・無我・苦を体験することとは何か
・マインドフルネスの脳科学
得られた成果の解説(10分)と質疑応答
fMRIによる成果、生理指標による成果
・マインドフルネスとメタ認知
マインドフルネスにおける気づきはメタ認知(反省、自己モニタリング)の一種か
メタアウエアニスやdereificationとの関係は?
・マインドフルネスはいかにして意識を変容させるか
意識を変容させる他の方法(説得、洗脳、運動、薬物、機械テクノロジーなど)とどう違うか
・マインドフルネスによって意識はどう変容するか
他の方法では不可能な独自の意識変容はあるか
所感(信原幸弘)
私たちは外界の事物や自分の身体状態だけではなく、自分の心の状態にもしばしば気づく。バナナを見ると、自分がバナナを見ていることに気づき、この花はきれいだなと思うと、その花がきれいだと自分が思っていることに気づく。もちろん、そのような気づきがなく、ただ見ているだけ、ただ思っているだけのときも多々ある。しかし、自分の心の状態に気づくこともよくある。
マインドフルネスは自分の心のあり方に気づくことを非常に重視する。私たちの心には膨大な数のさまざまな感覚や知覚、情動、思考が渦巻き、生じては消えていく。しかし、そのほとんどは私たちによって気づかれないまま、ただ過ぎ去っていく。マインドフルネスはそのように気づかれないまま過ぎ去っていく心の状態にできるだけ気づこうとする。気づいていない足の指の感覚に注意を向けて、それに気づき、膝の感覚に注意を向けて、それに気づく。何かに注意を向けて、それに気づくと、それ以外のものに注意が向かなくなるので、それまで気づいてものに気づかなくなるかもしれないが、ともかくまず気づいていない心の状態に注意を向けて、それに気づくようにする。
このように気づいていない自分の心の状態に注意を向けて、それに気づくようにすることは「集中瞑想」とよばれる。しかし、マインドフルネスにとって重要なのは、この集中瞑想によって培われた注意の制御能力を用いて、注意を一点からその周囲へと広げていき、自分の諸々の心の状態に満遍なく気づくようにすることである。これは「洞察瞑想」とよばれる。「注意」という言葉が何かに焦点を絞ることを意味するとすれば、洞察瞑想での満遍ない気づきはもはや注意とは言えないかもしれないが、それでも気づきであることは間違いあるまい。
マインドフルネスは気づきのなかでも、とくに洞察瞑想での満遍ない気づきを重視する。たしかに心の状態に気づくことが重要だとすれば、一部の心の状態だけではなく、すべての心の状態に満遍なく気づくことが重要であろう。では、なぜ自分の心の状態に気づくことがそれほど重要なのだろうか。いちいち気づかなくても、私たちはたいてい問題なく行動できるし、そうであれば、とくに必要なときにだけ気づけばよいのではないだろうか。
マインドフルネスによれば、自分の心の状態に気づくことが重要なのは、私たちが自分の心の状態に振り回されないようにするためであると言う。私たちはしばしば自分の心の状態に振り回され、ストレスを感じたり、あとで後悔するようなことをしてしまう。お酒を目にすると、ただお酒が見えるという視覚が生じるだけではなく、その視覚に反応して、お酒を飲みたいという渇望が生じる。そして、その渇望のままにお酒を飲んでしまうと、あとで後悔するし、渇望を我慢すると、ストレスが生じる。しかし、お酒を目にしても、ただお酒の視覚が生じるだけで、お酒への渇望が生じなければ、そのような問題は起こらない。
マインドフルネスは自分の心の状態に気づくことで、渇望や嫌悪などの反応が起こらないようにしようとする。お酒が好きな人は、お酒を見ると、おのずとそのお酒を飲みたいという渇望が生じる。お酒はその人に「飲みなさい」と呼びかけてくるし、それに反応して飲みたいという渇望が起こってくる。しかし、お酒を見ても、お酒を見ていることに気づけば、「飲みなさい」というお酒の呼びかけに自動的に反応しなくなる。つまり、お酒を見ても、それに気づくなら、飲みたいという渇望が自動的に生起することはなくなる。たしかにそのようになってもなお、お酒を飲むかもしれないが、それは渇望に駆られて飲むのではなく、ただおのずと飲むのである。
マインドフルネスはこのように、自分の心の状態に気づくことで、気づかなければ振り回されていたであろう心の状態に振り回されなくなることを可能にする。つまり、自分の心の状態から生じる渇望や嫌悪から私たちを自由にすることで、私たちを囚われや執着から解放するのである。私たちは自分の心の状態に気づくことで、自分の心という舞台で繰り広げられるさまざまな心の状態のいわば「観客」となる。そして自分の心をそこから一歩離れた「観客」として眺める。こうして私たちはやがて囚われや執着から解放された自由な心の状態になるのである。
しかし、このような心の自由は、必ずしも自分の心の状態に気づくことによってのみ成立するというわけではないように思われる。たしかに心の自由を確立するためには、自分の心の状態に気づくことによって渇望や嫌悪が生じなくなるようにする必要があるかもしれないが、いったん心の自由が確立すれば、やがて自分の心の状態に気づかなくても、渇望や嫌悪が生じなくなるのではないだろうか。お酒を見ていることに気づくことで飲みたいという渇望が生じなくなると、やがてそれに気づかなくても、飲みたいという渇望が生じなくなるように思われる。つまり、お酒を見ると、おのずと飲みたいという渇望が生じるような心のあり方から、お酒を見ても、おのずとそのような渇望が起こらないような心のあり方に変わるのである。
マインドフルネスは自分の心の状態に気づくことで心を囚われや執着から解放するが、そのようにして心の自由が達成された暁には、もはや自分の心の状態に気づくことは不要となろう。もちろん、気づかないままでいると、心はふたたび堕落して自由でなくなるかもしれない。そしてそうなれば、また気づくことが必要となろう。しかし、気づいていないと、心の自由が成立しえないというわけではない。むしろ、気づきなしに成立する心の自由こそが、そして気づきがなくても堕落しないような心の自由こそが、本当の心の自由であるように思われる。
このように言えば、私たち人間にはそのような真の自由は不可能だと反論されるかもしれない。たしかにそうかもしれない。私たち人間はつねに気づきによって心の自由を維持するしかないのかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、理想としては、気づきなしの心の自由がありうるように思われるのである。
マインドフルネスは行動をどう変容させるか
2023.11.8(意識研 #008)
アジェンダ
①マインドフルネスによって感覚や感情や思考などの自分の心の状態に振り回されなくなるとき、行動の生じ方および行動のあり方はどう変わるだろうか
・行動の生起に対して、感覚、感情、思考、欲望、知恵はどんな役割を担うようになるか
・道徳的ないしウェルビーイング的に悪い行動が減って、善い行動が増えるというような善悪に関わる行動の変容が起こるのだろうか
②マインドフルネスは意志(意図)を認めるのだろうか
・意図的行為とそうでないものとの区別はどうなるか
意図的行為は意志の制御下にあるものとなるのだろうか
・行為の責任はどうなるのだろうか
そもそも行為の責任は意味をなすのだろうか
意味をなすとすれば、どのようなものになるのだろうか
行為の責任とは行為の結果生じたことへの「応答」だとするのか
意志の制御の範囲内にある行為についてのみ責任を負うという原則はどうなるか
・人間の主体性(自律性)や合理性を柱とする西欧近代的な人間観はどう評価されることになるのだろうか
③マインドフルネスを行おうとすることは意志の働きなのだろうか
・水を飲もうと意志して水を飲むように、マインドフルネスをしようと意志してマインドフルネスをするのか
・それとも、マインドフルネス実践者の姿に触れて(例えば、その姿に感動して)おのずとマインドフルネスをするようになるのか
例えば、楽しい音楽を聴いて、おのずと踊りだすのと同様だろうか
④マインドフルネス実践者は外界の事物や他者とどう関わるのか
・外界の事物や他者を支配することもあるのか
・支配的な関係に立たない場合、外界の事物や他者とどのような仕方で交わることになるのか
所感(信原幸弘)
マインドフルネスによって森羅万象が「無常・無我・苦」であることを悟った人は、行動がどう変容するのだろうか。そのような根本的な悟りを得たからには、大きな行動の変容が期待されよう。何事にも執着せず、自由自在に振る舞い、自分や他人を苦しめるようなことはいっさいせず、ひたすら人に喜びを与える。悟った人はそのように行動するはずだ。
しかし、本当にそうであろうか。そもそも何事にも執着せず、自由自在に振る舞うというのは、どんなふうに行動することであろうか。行動することは必ず、その行動によって達成しようとしていることがらに執着することであるように思われる。人に喜びを与えることでさえ、人が喜ぶということに執着することである。そのような執着なしに、ただ人を喜ばせているだけだと言うのなら、なぜ人を喜ばせるのだろうか。いかなる執着もないのなら、人を苦しめてもよいのではないだろうか。苦しめるのではなく、喜ばせるのなら、それは苦しみではなく、喜びに執着しているからではないのか。
ここで、執着はたんなる欲求とは異なると言われるかもしれない。人を喜ばせるとき、たしかに人を喜ばせたいという欲求をもっているだろうが、だからといって人を喜ばせることへの執着をもっているとはかぎらない。人を喜ばせたいという欲求は、もし人を喜ばせないほうがよいという理由が見つかれば、消滅するであろうが、執着のほうは消滅しない。人を喜ばせることに執着する人は、喜ばせることでかえって人の成長を妨げることになっても、なお人を喜ばせようとする。
執着は行動の理由に従わない不合理な欲求である。それにたいして合理的な欲求は、どう行動すべきかにかんする諸々の理由を比較考量することによって形成される。したがって、執着ではなく、合理的な欲求にもとづく行動は、理に適った理性的な行動である。
では、執着を離れて自由自在に振る舞う悟った人というのは、ようするに合理的欲求にもとづいて理性的に行動する人のことであろうか。そうではあるまい。マインドフルネスが目指すのは、そのような「理性的な高み」ではなく、それとはまったく別種のもの、つまり理性とは異なる次元のものであるように思われる。
マインドフルネスはたんに理性を練磨するものではない。理性は無常や無我ではなく、むしろすべてを「不変の実体」から成るものとして、また手足の動きなどを「自分の意のままになる」ものとして捉えようとする。マインドフルネスは私たちをこのような理性的な世界から離脱させて、無常・無我を悟らせようとする。
理性的な世界は私たちの日常的世界の延長線上にある。それは日常的世界を理性的に純化したものにすぎず、けっして日常的世界とは別種の異次元の世界ではない。マインドフルネスが理性的世界を離脱させるということは、ようするにマインドフルネスが日常的世界を離脱させるということである。無常・無我の悟りは日常的世界を超越した異次元の世界を開示するのである。
しかし、悟った人もまた、日常的世界に生きる。悟ったからといって、日常的世界から消えて悟りの世界に生きるわけではない。悟りの世界はそもそも、おそらく「生きる」ということが成り立つような世界ではないであろう。悟った人もまた、生きる以上は、日常的世界に生きるしかないのである。
では、悟った人は日常的世界でどう生きるのであろうか。無常・無我・苦を悟れば、日常的世界での行動はどのように変容するのであろうか。悟りの世界は日常的世界と次元が異なるが、それでもけっして無関係であるまい。両者は分かちがたく結びついているはずだ。そうだとすれば、悟った人の日常的世界における行動には、何らかの大きな変容があるはずだ。
しかし、そのような変容があったとしても、悟っていない人にはその変容が見えないかもしれない。悟っている人には悟った人の行動の変容が見えるが、悟っていない人には悟った人の行動も相変わらず日常的な行動、つまり執着に支配された振る舞いにしか見えないかもしれない。
悟りの難しさはまさにここにあるように思われる。悟ることがどのようなことか(つまり悟りのクオリア)はもちろん悟った人にしか分からないが、それだけでなく悟った振る舞いがどのようなものであるかも悟った人にしか分からない。つまり、行動の次元でも、悟りには公共性がないのである。
しかし、悟りの振る舞いに公共性がないとしても、悟った人の日常的世界での行動が変容しないというわけではないだろう。悟った人はたしかに自分の行動を変容させるし、その変容は悟っている人たちにはよく分かる。このような行動の変容は当然、日常的世界のあり方を変えていくであろうが、そのような日常的世界の変化もまた悟っていない人たちには特別な変化には見えない。日常的世界は絶えず変化するものだというありきたりの変化のひとつにしか見えないのだ。
悟りとはまことに厄介なものである。悟らない人には、悟った人の内面だけではなく、外に表れた行動すらも理解できない。しかし、それでも、悟った人の行動の変容によって、日常的世界はそのような変容がなければ生じえないような特別な仕方で変化するであろう。ここに悟りの希望があるように思われる。
マインドフルネスは革命を起こせるか
2023.12.13(意識研 #009)
アジェンダ
・もしプーチンがマインドフルネスを実践したら、ウクライナ侵攻はどうなるだろうか
プーチンにはどんな「行」が蓄積されているのか
ネタニヤフや習近平がマインドフルネスを実践したら、どうなるだろうか
・平和や世界政府の実現には、マインドフルネスの社会制度化(例えば義務教育化)が必要だろうか
それとも、社会制度化はマインドフルネスの精神を損ない、効果をなくすか
・マインドフルネスは現実への耐久力や回復力を高めることによって、かえって現実を変革する志向性を奪い、悲惨・不当な現実の肯定に陥る危険性はないのだろうか
これはポジティブ心理学や精神医学に対してときになされる批判である
また、かつては死後の救済を説く宗教に対してもこの種の批判がなされた
・マインドフルネスが自発的隷従ではなく自律性を醸成するなら、マインドフルネスによって権威主義的な機構(例えば上意下達の軍隊、宗教教団、企業、あるいは拘束的な社会)は成立しえず、社会のすみずみまで民主化されるだろうか
マインドフルネスは権威的ないし権力的でない人間関係を実現するのだろうか
所感(信原幸弘)
人の心は濁っている。世の中は不条理と欺瞞に満ちている。マインドフルネスによって人の心が浄化されれば、腐り果てた世の中もおのずと変わるだろう。マインドフルネスが革命を起こすのは当然のことのように思われる。もし革命を起こさないなら、それはマインドフルネスではないのだ。マインドフルネスはその本性上、革命へとつながる。
しかし、ごく少数の人たちだけがマインドフルネスを実践して清浄無垢な覚者となるだけでは、革命は起こらないだろう。世の中の多くの人がマインドフルネスを実践して、おのれの魂を清め、覚醒者とならねばならぬ。燎原の火のようにマインドフルネスの実践が苛烈に急速に広まるにせよ、あるいは亀の歩みのように静かに徐々に広まるにせよ、多くの人たちが覚者とならなければ、不条理と欺瞞に満ちた世の中が根本的に変容を起こすことはないだろう。
何らかの運動が起こるとき、一部のインフルエンサーとそれに追随する膨大な数のフォロワーたちという構図で、運動が広まることがある。しかし、マインドフルネスによる革命はこのような仕方で起こるものではありえないだろう。マインドフルネスはその本性上、インフルエンサーとフォロワーというような権威的ないし権力的な関係を許さないと思われる。それは徹頭徹尾対等な関係、すべての人間の平等な尊厳にもとづく民主的な関係しか許さないだろう。
マインドフルネスを教育制度のなかに組み込むことも、同様の理由でそれの本来の精神に反しているだろう。教育は、少なくとも現在行われているほとんどの教育は、社会規範に従順に従う精神の形成や、企業や国家に役立つ能力の育成といった何らかの「人為的な目的」に向けて行われる強制的な(ある意味で「暴力的な」)営みである。それは人間の「自然な成長」に即したものではない。つまり、自然な成長を妨げる要因があれば、それを除去して自然な成長を助けていこうとする営みではない。それは何らかの目的のためにむしろ自然な成長を捻じ曲げようとするものである。
マインドフルネスがこのような教育と反りが合わないことは明らかであろう。しかし、その反面、マインドフルネスは人間がおのずと実践するようになるものでもない。子供は成長するにつれて、おのずと歩けるようになり、おのずと言葉を話せるようになるが、それと同じように、人間はおのずとマインドフルネスを実践するようになるわけではない。そこには何か特別な働きかけが必要である。
人をマインドフルネスの実践へと向かわせる非強制的な働きかけ、自然な成長を捻じ曲げない働きかけはあるのだろうか。マインドフルネスには、その本性上、そのような働きかけがなければならないだろう。では、それは何だろうか。
楽しそうに踊る人を見ると、ついつい同じように踊りたくなる。わけもなく、目的もなく、おのずと身体が動き出す。没我の踊りは人から人へと際限なく広がる。「Dance with the invisibles」(睦月都)という歌集がある。「見えざるもの」と共に踊る。「見えざるもの」を感受できない者には、その踊りはただの謎でしかないだろう。しかしそれでも、抗いがたい魅力に誘われて、その踊りを見た者はおのずと踊り出し、「見えざるもの」が立ち現れてくる。見えざるもの(日常を超えた異界の存在)が見える身体のなかに開示されるのだ。
マインドフルネスの実践はそれを見た者をおのずとマインドフルネスの実践へと誘い込む。そして多くの人がマインドフルネスを実践することによって、おのずと革命(世の中の根本的な変化)が起こるだろう。しかし、人々の心が浄化され、世の中が清浄になったとしても、人が肉体をもって生きる以上、そこには相変わらず心の煩悩、この世の不条理が如何ともしがたく根を張っているかもしれない。「泥中の蓮」のように、煩悩と不条理の泥沼のなかでしか清浄な蓮の花は開花しないのかもしれない。受肉の生はこのような根源的な矛盾を避け難く内包していよう。それはマインドフルネスによっても払拭できないだろうし、そもそもマインドフルネスはそのような矛盾の解消を目指すものではあるまい。
マインドフルネスによって当然、革命は起こるだろうが、その革命がもたらす世界は一点の曇りもない清浄無垢な世界ではなく、物質のなかに具現される以上、清濁の冥合した「ほどほど」の世界であろう。