READING GROUP RECORDS|意識と里山
一覧の要約はAIによるものです。各回の全文記録は下にあります。
※各回の記録には参加者の議論内容と所感が含まれています。この読書会は2025年1月から始まり、ベルクソンの『時間と自由』を順を追って精読しています。
出席者:信原、七沢、染谷、鈴木、大家
・今回は、山梨県北杜市にある「SANU 2nd Home 南アルプス1st」で合宿を行った。山腹にあるログハウス風の建物のなかで、どっぷり自然に浸かりながら読書会を行い、じつに爽やかであった。初日は、残念ながら雨だったが、二日目は、すっかり晴れあがり、近くにある意識研究財団の森に場所を移して、さらに読書会を続けた。木立に囲まれて新鮮な空気を味わいながらの読書会はまことに格別だった。原島さんと太向さんが残念ながら参加できなかったが、彼らにもこの緑と風のなかの読書会を味わわせてあげたかった。
・今回は「運動と記憶」「記憶と運動」(pp.126-167)を読む予定であったが、対面での読書会であったせいか、議論がはずみ、さまざまなコメントも出て、結局、大家さん、鈴木さん、染谷さんにレジュメを担当していただいた箇所(pp.126-155)までしか読むことができず、太向さんがレジュメを作成してくれた箇所はまるまる残ってしまった。しかも、染谷さんの担当箇所も、前半しか十分に扱えず、後半は急ぎ足になってしまった。そのため、次回は染谷さん担当の後半の箇所を復習してから、太向さん担当の箇所を読むことにした。
・今回、読んだ範囲では、まず、事物の再認が現在の知覚と過去の記憶の照合によるというよくある考えを批判して、再認の基盤は知覚が一連の組織化された運動を呼び起こすことにあるとするベルクソンの考えがなかなか斬新で印象深かった。対象が馴染みのものに見えるというのは、対象にどう反応すればよいかがわかるということだと言うのである。再認をこのように捉えるのは、そもそも対象の知覚を対象への働きかけの観点から捉えようとするベルクソンにとっては、きわめて自然なことであろうが、通常のものの見方からすると、なかなか新鮮な感じがする。
・このような再認は、しかしながら、知覚に伴う運動によって成立するので、記憶イマージュの介入を必要としない。こうした「自動的再認」に加えて、記憶イマージュの介入を必要とする再認、すなわち「注意的再認」もあるとベルクソンは言う。たしかに再認は過去の記憶に関わると思われるので、このような再認があるというのは当然であろう。むしろそれこそふつう再認とよばれるものであろう。
・注意的再認では、知覚に伴う運動は対象への働きかけではなく、対象の輪郭をなぞる運動となる。そしてこの運動に適合する過去の記憶イマージュが招き寄せられ、知覚に介入する。こうして知覚がより詳細になる(つまり、知覚の対象がより詳細な姿で現れる)。注意が深くなるほど、より深い記憶イマージュが招き寄せられるので、対象のより深い側面が現れることになる。ベルクソンはこの注意的再認のあり様について、「対象の輪郭という型にぴったりはまることができるイマージュを能動的に創造して、それを外に投射する」と言い、また「こうしたイマージュは、どれも知覚を出迎えようとしており、知覚の実質を自らの栄養にすることができれば、十分な力と生命を得て、知覚と一緒に自らを外化できるようになる」と述べる。しかし、このように「創造」「投射」「外化」といった表現を用いるのはあたかも知覚の投影説のような語り方になっており、とても危険ではないかという批判が出た。それにたいして、この語り方はたしかに危険であるが、知覚の投影説を含意しないように好意的に解釈することも不可能ではなく、それゆえ善意解釈を施すべき箇所ではないかという意見も出た。
・次回は、染谷さん担当の後半の箇所を復習してから、太向さんの担当の箇所(pp.155-167)を読む。
◆所感(信原)
再認についてベルクソンが述べていることは、記憶イマージュの介入しない自動的再認についても、また記憶イマージュの介入する注意的再認についても、過去の記憶イマージュとの照合ではなく、知覚に伴う運動を基礎とするという点で、斬新かつ魅力的である。
しかし、ベルクソンがこの説を物質と精神の二元論のもとで述べていることを考えると、ただちにいくつもの重大な疑問が浮かんでくる。
たとえば、ベルクソンは注意的再認について、知覚に続いて、対象の輪郭をなぞる運動が起こり、その輪郭の型に適合する記憶イマージュが招き寄せられ、知覚に介入し、より詳細な知覚が形成されると言うが、記憶イマージュと対象の輪郭(あるいはそれをなぞる運動)が精神と物質という根本的に異なるものに属するとすれば、それらの間にいかにして「適合」というような関係が成り立つのだろうか。記憶イマージュが脳に蓄えられているのであれば、それは物質に属するものであるから、対象の輪郭(なぞる運動)との間に何らかの適合関係を設定することも可能であろうが、そうでないとすると、いったいどのようにしてそれらの間に適合関係を設けることができるのだろうか。
また、対象の輪郭(あるいはそれをなぞる運動)に適合する記憶イマージュが知覚に介入すると言うが、この知覚は物質の領域で成立しているものであり、そこにいったいいかにして精神に属する記憶イマージュが介入しうるのか。ベルクソンは物質と精神の二元論を取りながら、物質と精神の間に介入関係を認めることにとくに困難を感じないようである。それは、知覚されるイマージュがすべて記憶イマージュとして精神に保存されるとする点にもうかがえる。知覚イマージュが物質に属し、記憶イマージュが精神に属するなら、いったいいかにして知覚イマージュは精神に介入して記憶イマージュになることができるのか。
物質と精神の間に適合関係や介入関係を認めるなら、それが二元論のもとでいかにして可能なのかを説明すべきである。そうでなければ、その関係は不可解なもの、謎めいたものとして残されることになろう。しかし、これらの関係を何らかの納得できる仕方で説明できたとすれば、今度は、物質と精神が二元論的に異なると言えるかどうかが怪しくなるだろう。適合関係や介入関係が成立するなら、物質と精神は、たとえば、質量とエネルギーのように、たとえ異なるとしても、二元論的に異なるわけではないという可能性もあろう。二元論というベルクソンの枠組みは、彼のせっかくの素晴らしい考えを台無しにしかねない恐れがあるように思われる。彼がこの問題にどう対処していくのか、物質と精神の違いをどのように規定し、それらの関係をどのように設定していくのか、今後のテキストの展開が楽しみである。
出席者:信原、七沢、染谷、鈴木、大家、太向
今回から『物質と記憶』(杉山直樹訳、講談社学術文庫)の第二章に入り、冒頭の導入部と「記憶力の二つの形態」の節(pp.107-126)を読んだ。今回から新たに太向さんが読書会のメンバーに加わることになった。
■今回読んだ第二章冒頭〜「記憶力の二つの形態」(pp.107-126)の概要
・導入部では、第1章の身体論から検証すべき3つの帰結が導かれる。(1)過去は「運動機構(習慣)」と「独立した記憶(記憶イマージュ)」という2つの異なる形態で残存する。(2)再認は、対象の側から生じるときは運動を通じて、主体の側から能動的になされるときは表象を通じてなされる。(3)記憶から運動への移行は気づかれないほど連続的な段階を経て起こり、脳の損傷は運動化を妨げても記憶そのものを破壊しない。
・身体は「過去を未来へと押し進める動的先端」であり、脳は過去の表象が現在に送り込み続ける最先端の延長部、つまり過去の表象と現実の行為との「接合点」であって、記憶の貯蔵庫ではない――というベルクソン独特のテーゼが示される。
・本節の核心は、詩句の暗記と、個々の朗読の思い出との対比だ。学課の記憶(暗記)は、同じ努力の反復によって形成される習慣であり、復唱という行為として一定の時間を要し(「直に生きられる」)、日付を持たない。他方、例えば、3回目の朗読はこうだったという思い出において想起されるのは、一回的・非反復的で日付を持つエピソードであり、有用性の下心なしに、写真のように自動的・自発的に精神に刻まれる。想起では20分の朗読を一瞬に圧縮することさえできる。この両者の違いは程度の差ではなく本性の差である、と論じられる。
・吠えながら飼い主を迎える犬が行う再認は、運動的記憶だけで説明される。過去をイマージュとして呼び起こすには、現在の行為から自分を引き離す(デタッチメントする)必要があり、それができるのは人間だけだ。ここから、心理学者が研究してきた「習得される記憶」はむしろ例外であり、「記憶力に照らされた習慣」にすぎない、という心理学批判が展開される。
・文字列の視覚像を完全に「所有した」と感じながら、いざ再生しようとすると像が消えてしまうスミスの実験(1895)が紹介され、記憶術とは、行為や運動への移行を抑え込むことで、隠れがちな自発的記憶を意のままにしようとする技法だと位置づけられる。
■議論の応酬
・染谷:「主体/対象(シュジェ/オブジェ)」の語がここで出てくることに違和感を覚える。せっかく主観・客観の二分法を崩してきたのに、残念だ → 信原:能動/受動の対比ではなく、「物質の側だけで完結する再認か、精神が関与する再認か」の区別として読めばよいのではないか。物体Aが物体Bに衝突するとき、わざわざAを主体、Bを客体と呼ぶ必要がないのと同じで、知覚も記憶も能動性・受動性の対比なしに扱えばよい、という点で両者は合意した。4E認知・エナクティヴィズムとの接続は「ベルクソンを超えて考えたい」宿題になった。
・鈴木:現代の記憶心理学で標準となっている手続き記憶/エピソード記憶の分類は、タルヴィングがまさにこの『物質と記憶』を参照して作ったものだ。ただし、ベルクソンの区別は読み進めるほど形而上学的な重みを帯びるため、単純にイコールで結ぶのは要注意だ。
・ギブソンとの関係(染谷・七沢):知覚を「表象の構築」ではなく「刺激から運動への変換の一局面」と見る点で、ベルクソンの知覚論は、アフォーダンス理論と強い親近性がある。なおギブソン自身はベルクソンを読んでいないらしい、という小ネタも披露された。
・「全部記録される」問題(染谷・七沢):歩いているときの足裏の感触のような、注意を引かない経験まで自発的記憶は記録するのか → 「記録される、とまず飲み込むことがベルクソン理解の関門だ」(鈴木)。「意識に現れたもの」というより「身体に生じたエピソードすべて(無意識を含む)」と言うほうが正確である、という整理に落ち着いた。七沢からは「だから自分のことが分からない。無意識に記憶されたものがいきなり出てくる。それが面白くて生きている」という感想が出された。
・本日最大の対立軸――純粋記憶は変容するか:信原は「記憶内容は相互浸透し、元のもの自体が常に変容していくと考えるのが自然ではないか。夢や幻覚も『そのままの再生』ではなく大きな変容を被っている」と疑問を提起した。対して鈴木は、ベルクソンは構成主義的立場であり、想起のたびに現在の要請に応じてイマージュが構成され、純粋記憶はその「お手本」として理論的に要請される想定であり、それなしには想起の成功・失敗も「過去」という概念自体も成り立たなくなる、と応答した。「元の記憶は保持されつつ、上乗せする形で新たな記憶が構築されると読むしかないのではないか」(鈴木)vs「私は元のもの自体が変わると考える」(信原)――対立は解消せず、懸案事項として合宿に持ち越すことにした。
・現代脳科学との対決(七沢→鈴木):海馬など記憶部位の特定が進む中でベルクソンはどこまで現代の脳科学と戦えるか (七沢)→ ベルクソンは想起に脳部位が使われること自体は否定せず、脳は表象を生み出すのではなく、引き出すための「フック」だとする(鈴木)。純粋記憶は多くの仮定が組み合わさった理論的想定で、全部崩すのは逆に骨が折れるし、平井靖史先生らの現代的展開も参照先として有益だ(鈴木)。
・メンタル・フォトグラフィーの含意(信原→鈴木):写真そのものには「これは机、これは椅子」というカテゴリー分類はないが、ベルクソンの「精神写真」は意味づけを含むように読める(信原)→記憶術の例は意味づけを外して丸ごと覚える例として使われており、その点については正直迷っている(鈴木)。ここから「最初の知覚にすでに記憶が浸透しているなら、最初の知覚はどうやって成立するのか」という無限後退の問題にまで議論が発展し、これも今後への持ち越しになった。
・終了間際には七沢から「死んで脳がなくなっても記憶は残ることになるのか」という問題が提起され、「二元論を貫くならそうなる」と鈴木が答えた。前世の記憶の話まで飛び出したところで時間切れとなり、続きはすべて合宿で存分に行おう、ということになった。
8月と9月の定例の読書会は行わず、それに代えて9/16-17の合宿で読書会を行う。合宿では「運動と記憶」「記憶と運動」(pp.126-167)を読む。
◆所感(信原)
私たちが経験することはすべて写真のように、自動的にそのまま精神に記録される、とベルクソンは言う。では、経験はどのように精神に記録されるのだろうか。昨夜、満月を見たとして、その満月はどのようなものとして精神に記録されるのだろうか。写真であれば、満月は紙上の色点の集まりとして記録される。では、精神にはどう記録されるのだろうか。おそらく満月の表象として記録されると言われるだろう。しかし、それでは、表象とは何なのか。
ベルクソンは、知覚を対象のイマージュからそれに働きかける運動への変換として捉えることで、知覚を表象として捉える見方を実質的に回避した。しかし、記憶としての表象(つまり精神に記録される表象)はどうであろうか。それは知覚のように、イマージュ間の作用連関(知覚よりはるかに複雑な連関になるだろうが、ともかくイマージュ間の何らかの連関)として捉えて、実質的に表象の措定を回避できるだろうか。
しかし、記憶にかんしては、ベルクソンは知覚と違って、そもそも、表象の措定を回避しようとするどころか、むしろ積極的に表象を物的なもの(イマージュ連関)には還元できないものとして措定しようとしているようにみえる。そしてそこにこそ、物質とは異なる精神の独自性があり、それゆえ物質と精神の二元論でなければならないと考えているように思われる。
現在の心の哲学では、表象(志向性)を自然化することが主流になっている。すなわち、表象にかんして、その表象内容も表象媒体も、ともに物的世界における自然的なものとして位置づけようとする。表象される内容を物的なものとは異なる心的なものとしたり、表象する媒体を心的な素材からなるものとしたりはしない。たとえば、想起される満月を物的でない心的な満月としたり、満月を表象する媒体を心的素材からなるものとしたりはしない。そうではなく、満月の想起を、昨日見た満月から始まる多様な物的なものの複雑な作用連関として捉え、そうすることで表象内容と表象媒体をともに物的なものとして理解しようとする。
表象のこのような自然化が試みられるのは、そうしなければ、表象と物的なものとの相互作用が理解できなくなると考えられるからだ。表象はいわば物的世界から宙に浮いた存在(物的世界にいかなる因果的な作用ももたらさない存在)になってしまう。それは、哲学的ゾンビが可能だという想定の下では、クオリアが物的世界から宙に浮いた存在になるのと同様だ。
ベルクソンが記憶表象の自然化を試みず、むしろ積極的に二元論的な構図をとろうとするのであれば、ベルクソンはどのようにして、記憶表象が物的なもの(イマージュ)に因果的作用を及ぼすことを確保するのだろうか。その回答があの有名な図(円錐の頂点が平面に接する図)であろうが、はたしてそれは物質と精神を隔てる壁を乗り越えるものとなっているのだろうか。今後の展開が楽しみである。
出席者:信原、七沢、染谷、鈴木、大家
・今回は『物質と記憶』(杉山直樹訳、講談社学術文庫)の第一章の最後の「イマージュの本来の拡がり」「純粋知覚」「物質の問題への移りゆき」「記憶の問題への移りゆき」「物質と記憶力」(pp.82-103)の5つの節を読んだ。
・今回の総まとめ:今回は、第1章における「純粋知覚」理論の結論と、第2章以降の「記憶」の議論への接続が主なテーマであった。知覚を「身体の行為能力に応じたイマージュの切り出し」と定義することで、唯物論と観念論の双方を乗り越える試みが精査された。特に、生命の特質としての身体=「非決定性の中心」という概念が、現代の神経科学や自由意志の議論とどう関わるかが焦点となった。
・第1章の総括:今回読んだ第1章の結論部において、ベルクソンは知覚と物質の関係を再定義し、心理学および従来の形而上学の誤謬を指摘している。
・純粋知覚の本質——知覚とは、対象(物質・イマージュ)の一部であり、身体の「行為の可能性」に基づいて切り出されたものだ。従来の心理学は、網膜への刺激に対応する「要素的感覚」から知覚を再構成しようとするが、これでは「広がり」や感覚様相間の「質の一致」を説明できず、物質を謎めいた存在にしてしまう。身体はイマージュの総体の中に置かれた「非決定性の中心」であり、周囲のイマージュからの影響を行為へと変換する役割を担う。
・非決定性と生命の特質——身体は、外部からの刺激に対して自動的に反応するのではなく、選択の余地(非決定性)を持ち、これが生命の特質(自由の萌芽)とされる。神経系は知覚を生み出す器官ではなく、刺激を受容し、それを多様な行為の選択肢へと開いていく装置である。
・精神と物質を巡る哲学的論争——ベルクソンは、知覚と記憶を「程度の差」ではなく「本性の差」として区別することで、唯物論と唯心論を乗り越え、物質と精神の二元論を唱える。唯物論への批判:物質が意識を生み出すという主張は、知覚が物質の一部であることを看過している。唯心論への批判:知覚を主観的な見かけとすることで、物質を空虚な記号にしてしまっている。解決策:「物質は見える通りにある」という常識的実在論(素朴実在論)を一部修正しつつ受け入れることで、物質と精神の本性の違いを回復し、二元論を立てる。
・二元論と一元論の相克——参加者間では、ベルクソンの主張する「本性の差(二元論に繋がる)」と「時間の厚みの程度の差(一元論に繋がる)」の間に矛盾があるのではないかという指摘がなされた。物質も微小な「時間の厚み(凝縮)」を持つとするならば、精神(記憶)との違いは程度の差に還元され、事実上の一元論になるのではないかという疑問が提起された。また、ベルクソンは後の章で、精神(記憶)を「逆円錐」で、物質を「平面」で表して、逆円錐の頂点が平面に接することで、精神(記憶)が物質に接触して行為に影響を及ぼすとするが、精神と物質が本性的に異なるとするなら、両者はいかにして接触しうるのかという心身問題の困難さが改めて浮き彫りとなるのではないかという疑問も提起された。
・現代的視点(生成AIとベルクソン哲学)——AIが示す知性的な振る舞いは、ベルクソンの言う「知性(道具的なファンクション)」の模倣であり、実用的な文脈では物質的・機械的に再現可能である。ベルクソン的視点に立てば、AIは「知性」を持つが、生命的な「精神(純粋記憶)」は持たないということになろう。しかし、このような知性と精神の区別が本当に成り立ちうるのか、生成AI(LLM)はベルクソンの言う過去の保存をすでに可能にしているのではないかという疑問がやはり残る。
・第2章以降の展望——次章以降、ベルクソンは理論の「実験的検証」を試みると宣言する。身体に蓄積された「運動記憶(習慣)」と、過去の出来事を表象として保持する「独立した記憶(純粋記憶)」の区別を検証し、脳は記憶の「容器」ではなく、想起された記憶を現在の行為に適応させるための「中継点」に過ぎないことを、失語症などの病理学的知見を用いて検証しようとする。
・次回は7月14日10:00-12:00に開催し、第2章の冒頭部分とそれに続く「記憶力の二つの形態」の節(pp.107-126)を読む。
◆所感(信原)
ベルクソンは、第一章における純粋知覚に関する分析から、①脳は行為の器官であって表象の器官ではないという心理‐生理学的な結論と、②我々は純粋知覚において我々の外に置かれるのであり、直接的直観によって対象の実在に触れるという形而上学的な結論を導き出したが、そのどちらも直接の検証を受けるものではなかったと言う。そして、そのような検証を与えるものこそ記憶力の問題であり、それを次章以降で取り扱うと宣言する。
ベルクソンは、自分の仮説が科学上の仮説と同じく、事実による確証/反証が可能だと考えているようだ。しかし、本当にそのような確証/反証が可能なのだろうか。そもそも科学の仮説ですら、事実による確証/反証が可能だと言えるのかどうか、じっさいのところ怪しい。事実の理論負荷性というテーゼがある。それによれば、地球が太陽のまわりを回るという「事実」も地動説という理論に立ったうえでの事実であり、天動説という理論に立てば、「事実」は太陽が地球のまわりを回るということになる。事実は理論から独立ではなく、理論を背負って確立されるのであり、それゆえ事実によって理論を確証/反証することはできない。
もちろん、事実の理論負荷性というテーゼが成り立ち、事実が理論を端的に確証/反証するとは言えないとしても、事実が理論の正しさに何らかの関係をもつことは確かであろう。しかし、その関係はそれぞれのケースにおいて個別に見極めていく必要がある複雑な事態だ。ベルクソンは次章において、記憶(精神)が物質とは別の実在だという自身の仮説を記憶に関する事実から実証しようとするが、その事実がすでに記憶と物質の本性上の差異を前提したものではないのかどうか、また前提したものだとしてもなお、その事実がベルクソンの仮説を有利な方向に導くものなのかどうかを具体的に見極める必要がある。この点を念頭に置きながら、次章を読んでいきたい。
出席者:信原、七沢、染谷、鈴木、大家
・今回は『物質と記憶』(杉山直樹訳、講談社学術文庫)の第一章の「イマージュと実在」「イマージュの情感的感覚」「情感的感覚の本性」「情感的感覚から切り離されたイマージュ」(pp.63-82)の4つの節を読んだ。外的世界は拡がりなき諸感覚を寄せ集めて構成されるという錯覚に関連する三つの事実が検討された。
・第一の事実(感官の教育)——感官の教育が必要であるという事実から、外的世界が「広がりなき感覚の寄せ集め」から構成されるということは導出できず、それは錯覚だとベルクソンは言う。ベルクソンはその錯覚を退け、知覚とはイマージュの総体の中から主体(我々)の「欲求」に関係するものを選別することだという自説に基づいて、感官の教育の必要性をこう説明する:異なる知覚の間には、異なる欲求に応じた間隙(ギャップ)が存在するが、この分断された感覚の連続性を回復し、物質的対象を近似的に再構成するためには、感覚を調和させる「感官の教育(学習)」が必要となる。議論では、現代的には感官の「教育」よりも「学習」と捉える方が適切かもしれないという意見、感官の教育はドゥルーズやフーコーが論じるような世界との美的な関係を結ぶための教育(洗練)にも通じるという指摘、この「感官の教育」を成立させるためにはすでに「記憶」(少なくとも習慣的記憶)が前提されているのではないかという意見が出て、議論が交わされた。
・第二の事実(神経の特殊エネルギー仮説)——物理的な衝撃や電流など、同じ刺激であっても、それが視神経に作用すれば視覚に、聴覚神経に作用すれば聴覚になる。この事実から心理学者は、知覚を「空間内の機械的な運動」と「意識内での広がりのない感覚」の2つに切り分けてしまう傾向がある。ベルクソンは、電気的刺激には多様な構成要素が含まれており、その各要素がそれぞれ異なる感覚に客観的に対応していると考えることができると反論して、知覚の切り分けを退ける。
・第三の事実(情感と痛みの本性)——ベルクソンは、情感とは対象との距離がゼロになり、身体自体が知覚する対象となった場合の特別な知覚だと言い、知覚が事物の潜在的行為であるのに対し、情感は身体の内部で起こる「現実的行為」だと捉える。アメーバのような単純な有機体では知覚と運動が融合しているが、人間などの複雑な有機体では機能分化(分業)が進み、感覚神経は刺激の伝達のみを行うようになる。痛みとは、この分業により孤立無縁となった局所の部位が、受け入れきれない刺激に対して現状を回復しようとする「無力な努力」である。比喩的に言えば、知覚は身体の「反射力の尺度」であり、情感は「吸収力の尺度」である。実際の知覚には常に情感が不純物として混入しており、純粋知覚を得るためにはそこから情感を取り去る必要がある。議論では、痛みは局所における無力な努力ではなく、全身による手当てを誘発するという重要な機能があるのではないかという意見や、快感や慢性痛など痛み以外の情感もベルクソンの考えで説明できるのかという疑問が提起された。
・参加者の主な議論・疑問点——外界からの作用と身体の反作用(可能的行為)をいかにして同じものとみなすか、「反射」という言葉は文字通りの意味なのか比喩なのかについて議論がなされた。ギブソンのアフォーダンス理論とベルクソンの考えを比較すると、ギブソンでは外界の刺激情報(包囲光配列など)の中に対象と知覚主体の関係についての情報が含まれるのに対し、ベルクソンではそうでないという重要な違いがあるとの指摘がなされた。また、ベルクソンは、因果性や秩序が言語によって成立するというよりも、まずは身体的な感覚印象と行為の習慣的な連合から因果性や秩序の概念が出てくると考えているのではないかという指摘がなされた。
・次回は6月9日10:00-12:00で、読む範囲は「イマージュの本来の拡がり」「純粋知覚」「物質の問題への移りゆき」「記憶の問題への移りゆき」「物質と記憶力」(pp.82-103)である。
◆所感(信原)
机の知覚は身体の外の机にあり、歯の痛みは身体の中の歯にある、とベルクソンは捉える。たしかに机は身体の外の机に知覚されるし、歯の痛みは身体内の歯に感じられるから、そう捉えるのはきわめて自然である。机の知覚も、歯の痛みも、ともに心の中にあり、それらが机や歯の場所に投影されるのだと考えるのは、いろいろな理論的考察を重ねたすえにようやく辿り着いた推論の結果であり、日常の素朴な直観とはかけ離れている。ベルクソンの捉え方は、この日常の直観(常識)をできるだけ取り戻そうとする点で、たいへん魅力的である。
しかし、歯の痛みが身体内の歯にあること、つまり一般に痛みが身体内にあるということは、痛みという情感についてはたしかにその通りであり、身体外の痛みは想像しがたいが、他の情感についてはどうであろうか。たとえば、眼の前にいるクマへの恐怖は、身体内にあるのだろうか。たしかにクマに遭遇すると、心臓が高鳴り、顔が青ざめ、冷や汗が出る。しかし、そのような身体変化がクマへの恐怖だというわけではないだろう。少なくとも、クマへの恐怖には、身体変化だけではなく、その他の要因も関係しているだろう。なかでも、とくに眼の前のクマが関係していると思われる。眼前のクマに恐怖を抱くとき、そのクマはまさに恐ろしいクマとして眼前に立ち現れる。机を知覚するとき、机がまさに机として眼前に立ち現れるように、クマに恐怖を抱くとき、クマがまさに恐ろしいクマとして眼前に立ち現れるのである。
そうだとすれば、恐怖という情感は身体内にあるというよりも、むしろ身体外の対象にあると言ったほうがよいのではないだろうか。たしかに、ある対象に恐怖を抱くとき、その対象からの刺激によって身体内にさまざまな変化が起こるが、これらの変化は机を知覚するときに、机からの刺激によって身体内に起こる変化に相当するものとみなすことができよう。たしかに、机の知覚の場合は、身体内の変化はおもに神経系の変化であるのにたいし、クマへの恐怖の場合は、神経系の変化だけでなく、内蔵や皮膚の変化も含まれるが、このような違いがあるにせよ、いずれも机の知覚とクマへの恐怖を成立させるための基底的条件にすぎない。そうだとすれば、机の知覚が身体外の机にあるように、クマへの恐怖も身体外のクマにあると言えよう。
身体外には、机とその属性の諸々のイマージュがあるとベルクソンは想定するが、そうであれば、クマとその属性の諸々のイマージュもあり、それゆえクマのイマージュはその属性のイマージュの一つとして恐ろしいというイマージュをもつだろう。そうだとすれば、クマへの恐怖は恐ろしさというイマージュを選別する知覚だということになるのではないだろうか。たしかに知覚は神経系以外の身体変化をほとんど伴わないのにたいして、情感はそのような身体変化を伴うという点で、そしてそれと関連して、知覚が可能的行動を示すにしても、その行動を促す動機づけが乏しいのにたいして、情感はそのような動機づけが大きいという点で、知覚と情感のあいだに重要な違いがあるが、外界のイマージュの選別という点では、知覚と情感は共通ではないだろうか。
このように捉えることができるとすると、知覚と情感が本性上異なるとしても、その違いは身体の内外のいずれにあるかという点ではなく、行動の動機づけがあるかどうかという点にあることになろう(情感における身体変化は情感のもつ動機づけに関係すると考えられる)。この違いはたしかに大きいが、知覚と情感が外界のイマージュの選別という点で共通だという面もきわめて重要であろう。情感が知覚と同じくイマージュの選別だとすれば、このことはベルクソンの知覚/情感論にとって深刻な問題になるだろう。
出席者:信原、七沢、染谷、原島、鈴木、米倉
・今回は『物質と記憶』(杉山直樹訳、講談社学術文庫)の第一章の「イマージュの選別」「表象と行為の関係」(pp.40-63)の2つの節を読んだ。テキストの内容については、以下の諸点が確認された。
・神経系の機能と行為の非決定性——神経系は刺激を受容し、それを行為に変換する装置である。神経系が発達するほど、行為の選択肢(非決定性)が拡大する。知覚は、身体が空間に対して行使できる自由(可能的な行為)の範囲に比例する。遠距離の対象を知覚できることは、反応までに時間的猶予(非決定性)があることを意味する。
・「純粋知覚」と「減算」の理論——ベルクソンは、記憶が入り込む前の理念的な状態として「純粋知覚」を想定する。物質とはイマージュの総体であり、知覚とは、この総体から生命体の関心(利害)に関わらない要素を差し引いた「残り」である。知覚は、対象から発せられた作用が身体という「中心」を通過せず、反射して対象へ戻るプロセスに例えられる。身体は、イマージュを浮かび上がらせる「黒い膜」の役割を果たす。物質そのものは、あらゆる方向からの作用を全面的に受容(知覚)しているが、生命体は自身の行為に関わる部分のみを選別的に知覚する。
・身体運動と知覚の不可分性——知覚は単なる感覚の受容ではなく、身体の運動能力と不可分である。特定の刺激(視覚など)が失われれば、それに応じた運動能力も減少し、結果として知覚そのものが減少する。幼児の発達過程において、当初は非個人的であった表象が、身体の移動や特定の関係性を軸に整理されることで、個人的な表象(主観的知覚)へと成熟していく。
・参加者間で展開された主な議論——①純粋知覚の妥当性:「記憶を一切排除した知覚」という純粋知覚の想定が、現実の経験から乖離しており、思考実験としても成立しうるのだろうかという疑問が呈された。また、ベルクソンが「物質」と「記憶」を本性上異なるものとして分離しながら、後にそれらを接続しようとする試みは、結局のところ「魔法の杖」的なパッチワークに陥っていないかという批判的視点が出された。②生態学的心理学との接点:ベルクソンの「可能的行為の把握としての知覚」は、ギブソンのアフォーダンス理論と強い親和性を持つ。物理的な刺激が届かない対象(壁の向こうの物体など)をどう扱うかについて、現象学的あるいは生態学的心理学の観点から「情報の再定義」が必要であるとの意見が交わされた。③表象の出現:記憶を抜いた世界観は極めて唯物論に近いが、ベルクソンはそこに「時間の凝縮(リズム)」という要素を導入することで、物質と精神を地続きのものとして記述しようとしているとの指摘がなされた。
・特筆すべき引用——「知覚は、我々の身体が事物に対して行使できる自由の範囲を、空間の中に描き出しているにすぎない」「表象(意識的知覚)は、何らかのプラスの要素が付け加わることで生じるのではなく、イマージュの総体から不要なものが取り除かれる(減算される)ことで出現する」「身体は、イマージュがその上を素通りしていく透明なガラスではなく、それを反射させ、輪郭を浮かび上がらせる黒い膜である」。
・今年度の5月から9月の読書会は、毎月、第二火曜の10:00~12:00の開催とする。次回は5月12日10:00-12:00で、読む範囲は「イマージュと実在」「イマージュの情感的感覚」「情感的感覚の本性」「情感的感覚から切り離されたイマージュ」(pp.63-82)である。
◆所感(信原)
イマージュの知覚(表象)は、イマージュへの「付加」ではなく、「減少」だとベルクソンは言う。イマージュは知覚されなくても存在するが、知覚されないイマージュに何かが付加されることによってイマージュの知覚が成立するのではなく、イマージュの総体から生物が自分に関心のあるものを抽出する(逆に言えば、関心のないものを捨象する)ことによってイマージュの知覚が成立する。
たしかにイマージュの知覚とは関心のあるイマージュの選別であろう。しかし、この選別はいかにして行われるのであろうか。ベルクソンは記憶を除去した純粋知覚においても、この選別がなされると言うから、イマージュの選別はイマージュのみからなる世界において行われるのであろう。つまり、生物もイマージュの集まりであり、生物のもつ関心もそのようなイマージュの集まりの一側面であろう。そうだとすれば、イマージュの知覚は知覚する生物を中心とした諸イマージュの活動として成立することになろう。
生物それ自体をもイマージュの総体の一部と見る視点からは、イマージュは生物という活動の中心をもたず、客観的なイマージュシステムに属するものとなる。イマージュの知覚はこのようなイマージュのもとで客観的な過程を経て成立することになる。現在の自然主義的な心観のもとでは、知覚はまさにそのようなものとして捉えられる。
しかし、ベルクソンははたして知覚をこのような客観的なイマージュシステムにおいて成立するものとして捉えているのであろうか。知覚の説明において生物の「関心」を持ち出すとき、その関心のもとでイマージュのシステムは客観的なものから主観的なものへと転換を遂げているのではないか。だからこそ、知覚されるイマージュは生物を中心としたものになっているのではないか。しかし、そうだとすれば、この生物の「関心」とは何であり、それによってイマージュのシステムはいかにして主観的なものに転換するのであろうか。ここにはすでに記憶の働きが関与しているのではないだろうか。
ベルクソンは、記憶の働きを捨象した純粋知覚において知覚の成立を「減少」として説明しようとするが、生物の「関心」を持ち出すことで、じつはすでに記憶の働きを「付加」してしまったことにならないのだろうか。この疑問を念頭に置きながら、次節以降を読んで行きたい。
出席者:信原、七沢、染谷、原島、鈴木
・今回は『物質と記憶』(杉山直樹訳、講談社学術文庫)の第一章の「現実的行動と可能的行動」「表象」「実在論と観念論」(pp.21-40)の3つの節を読んだ。
・ベルクソンは哲学的な論争が起こる前の日常的な概念として「イマージュ」という概念を設定して、そこから哲学的な議論や諸説を批判的に検討し、独自の心身関係論を展開する。イマージュは感官を開けば知覚され、閉ざせば知覚されないようなものであり、一方では、それは自然法則に従うが、他方では、自分の身体という特別なイマージュがあって、他のイマージュはそれとの関係で変化するともに、そこから非決定性(真に新しいものの創造)が生まれる。
・身体は外界のあり方を表象するというより、外界のあり方に応じて行動を起こす「行動の中心」であるとされるが、ここにアフォーダンス知覚に通じるベルクソンの重要な独自性がある。
・ベルクソンは心身関係の問題を、同じイマージュがいかにして二つの異なるシステムに属しうるかという問題として捉える。イマージュは、一方では、「それぞれが自分に即しつつ、周囲のイマージュから現実的作用をこうむるのに応じて正確に定まった形で変化するようなシステム」に属し、他方では、「すべてのイマージュがただ一つのイマージュに即しつつ、その特権的なイマージュの可能的な行為を反映するのに応じてさまざまな形で変化するようなシステム」に属する。同じイマージュがこの二つの異なるシステムに属しうるのはいかにしてか。実在論は前者のシステムから後者のシステムを導出しようとし、観念論はその逆の導出を試みる。しかし、いずれの導出も各システムの完結性のゆえに失敗する。ベルクソンはこの二つのイマージュのシステムをどう関係づけるのであろうか。この問題は今回の箇所ではまだ取り組まれていないが、やがて「純粋知覚」や「記憶」という鍵となる概念が導入されて本格的に論じられよう。
・次回は、新年度が始まる4月なので、暫定的に4月6日9:00-11:00の開催とし、「イマージュの選別」「表象と行為の関係」(pp.40-63)を読む。
◆所感(信原)
同じ椅子でも、近づけば大きく見えるし、遠ざかれば小さく見える。しかし、そのように自分からの距離に応じて椅子の大きさが変わっても、椅子をどこに置くことができ、どこに置くことができないかは変わらない。つまり、椅子のイマージュは、一方では、自分との関係で変化するが、他方ではそのようには変化せず、自然法則に従う。ベルクソンはこれを同じイマージュが二つの異なるシステムに属すると表現する。そしてそれがいかにして可能かを問う。
たしかに、私たちは、ごく素朴には、同じ椅子が自分との関係で変化し、それとともに、そのようには変化せずに同じ自然法則に従っていると考える。しかし、同じものが変化するとともに変化しないというのは端的に矛盾である。そこで、この矛盾を解消するために、私たちはふつう、「事物」とその「見え」を区別する。椅子はたしかに近づけば大きく見え、遠ざかれば小さく見えるが、それは椅子の「見え」が大きく/小さくなっただけで、椅子それ自体は同じ大きさのままだ。このように椅子とその見え(実在とその現れ)を区別することによって、同じものが変化しかつ変化しないという矛盾を解消しようとする。
しかし、ベルクソンはこのような実在と現れの区別を導入しようとしない。その区別を立てるまえの段階で「イマージュ」という概念を設定し、椅子のイマージュは自分との関係で変化するシステムとそうでないシステムの両方に属すると言う。しかし、これはやはり矛盾ではないか。あるイマージュが自分との関係で変化するシステムに属するということは、そのイマージュが自分との関係で変化するということであり、そのイマージュが自分との関係で変化しないシステムに属するということは、そのイマージュが自分との関係で変化しないということであろう。そうだとすれば、同じイマージュが自分との関係で変化し、かつ変化しないということになる。
もちろん、ベルクソンはイマージュが二つの異なるシステムに属すると言うとき、このような矛盾があるとは思っていないだろう。では、同じイマージュが二つの異なるシステムに属するというのはどのようなことであろうか。なぜそれぞれのシステムに属するイマージュが同一だと言えるのだろうか。
この疑問をさらに強めるのが、イマージュの二つのシステムはそれぞれ完結しているというベルクソンの言である。完結したシステムに属する要素のあいだにいかにして同一性が成り立ちうるのか。対応関係を設けることはできても、同一性を設定することはできないのではないか。
同じイマージュが二つの異なる完結したシステムに属するというのは、たしかに差し当たっては、そのように言いたくなるが、それがいったい何を意味するかは、じつは深遠な謎のように思われる。今後のベルクソンの展開が楽しみである。
出席者:信原、七沢、染谷、原島、鈴木、米倉、大家
・今回から『物質と記憶』(杉山直樹訳、講談社学術文庫)に入り、まず冒頭の「第七版の序」(pp.9-20)を読んだ。
・この序では、精神と物質の関係を明らかにするという本書全体のテーマが明示され、記憶力の事例に基づいて、観念論と実在論を批判しつつ、精神と物質の二元論の立場をとることが明言される。この序によって、本書全体の簡潔な展望が得られ、難解と言われる本書を読むうえで、よい導きの糸が得られた。
・ただ、本書は精神と物質の二元論の立場をとると明言され、訳者の解説でも、本書はけっしてイマージュ一元論ではないと注意喚起がなされるが、はたして本書は二元論を維持しうるのか、結局は、一元論にならざるをえないのではないかという意見も出され、本書を読み進めるうえで重要な批判的視点が得られた。
◆所感(信原)
ベルクソンは、精神の実在と物質の実在をともに肯定し、はっきりと二元論の立場に立つと言う。また、「訳者解説」でも、ジル・ドゥルーズの著作から「『物質と記憶』によれば、万物はイマージュであり、世界も精神も結局、イマージュの戯れとして一元論的に捉えられる、といった話」(p.364)が広まっているようだが、本書はそのようなイマージュ一元論ではなく、物質をイマージュとして捉えるが、精神はそうでないとする二元論なのだと言われる。
たしかに、本書は、その論述からすると、二元論を唱えているのであろうが、物質を「観念論者が表象とよぶものよりは多く、しかし実在論者がものとよぶものよりは少ない存在、つまり「もの」と「表象」の中間に位置する存在」(つまりイマージュ)として捉える本書の基本構想からすると、結局は、物質を低次のイマージュ、精神を高次のイマージュとして捉えるしかないのではないかという疑問が生じてくる。つまり、そうしないで物質と精神をあくまでも二元論的に捉えてしまうと、物質と精神を関係づけることができなくなる(つまり、両者の間に成立していると思われる諸関係を成立させることが不可能になる)ように思われるのだ。この疑問にベルクソンはどう応えているのであろうか。この点に注目しながら、本書を読み進めていきたいと思う。
出席者:信原、七沢、染谷、原島、鈴木、米倉、大家
・今回は『時間と自由』の第三章の最終節「自由の問題の起源」と最後の結論の章(pp.261-287)を読んだ。
・「自由の問題の起源」は自由と決定論の問題を扱った第三章のまとめの節であり、空間化されない本来の持続のプロセスから生まれる行為が自由であり、そのような持続を見失うと、必ず決定論に至るという本章の主旨が簡潔にまとめられていることが確認された。
・結論の章は、第一章から第三章までの本書全体の結論であり、質を量から峻別し(第一章)、それを踏まえて持続を空間から峻別し(第二章)、そのような持続から自由が可能になることを論じる(第三章)という本書の全体の流れが主要な論点を漏らすことなく簡潔に整理されていることが確認された。
・とはいえ、質(内的精神)と量(外的物質)はベルクソンが主張するように、截然と区別し、それぞれを純化できるのか、そうではなく質と量は本質的に相互浸透していて、それらを区別し純化することは、むしろ本来の姿を歪めることになるのではないかという疑問が根強く残った。
◆所感(信原)
ベルクソンは、私たちがふつう時間だと思っているものは本来の持続が空間化されて作り出された等質的な時間だと言うが、むしろ空間化されない純粋な持続こそ等質的時間から無理やり切り出された時間ではないだろうか。時間は本来、空間的側面と持続的側面を兼備しており、しかもそれらがたんに組み合わさっただけというのではなく、それらが不可分に相互浸透して成立しているものではないだろうか。そうだとすれば、そのような空間と持続が相互浸透する等質的時間から純粋な持続を切り出すことは、かえって空間性を本来的にはらむ時間をそうでないものへと歪めることになるように思われる。
あるいは、少しベルクソンに寄り添って言うなら、純粋な持続が本来存在するとしても、等質的時間も本来存在するのであり、等質的時間はけっして純粋な持続を空間化して歪めたものではないのではなかろうか。等質的時間を日常的な生活の便宜のために作り出された虚構にすぎないと断ずるのは、そう簡単ではないように思われる。
これは質と量の区別についても同様であり、ベルクソンが量化された質(強さ)と糾弾するものも、質と量の両面を相互浸透的に備えたものとして本来的に存在するものではないだろうか。それもまた、けっして質が量化されて歪められた虚構なのだとは言えないように思われる。
出席者:信原、七沢、染谷、原島
・今回は『時間と自由』第三章の「真の持続と因果性」の節(pp.238-261)を読んだ。
・この節では、決定論者の最後の方策として、すべての行為はその心的先行者によって決定されるとただ断言するだけの方策が取り上げられ、この断言には因果性の原理という執拗な先入見があり、それを暴き出すことによって、この最後の方策も無効であることが示される。
・因果性の原理は、一定の先行状態が原因となって必ず一定の後続状態が結果として産み出されるという原理であり、この必然的な規則性を理解するために、私たちは、原因のなかに結果があらかじめ何らかの形で形成される(原因における結果の前駆的形成)という考えを抱くが、この前駆的形成には二つの形態があるとベルクソンは指摘する。
・第一は数学的な前駆的形成で、前提のなかに結論が論理的に含まれているのと同様に、原因のなかに結果が含まれているとする。しかし、これは未来を現在に無限に近づけ、それゆえ因果性を同一性とみなすことであり、物理現象については妥当であっても、心理現象には妥当しない、とベルクソンは批判する。
・第二は心理的な前駆的形成で、原因の観念に結果の観念が含まれるとする。しかし、これは結局、行為の原因をその行為を実現しようとする努力感とすることにほかならず、そのような努力感はたしかに行為の観念を含むが、だからといって行為が必ずなされるとはかぎらない。つまり、原因と結果の関係が必然的にはならない、とベルクソンは批判する。
・こうしてベルクソンは、どちらの形態の前駆的形成でも、行為は心理現象によって因果的に決定されないということ、それゆえ行為は自由であることが立証されると言う。しかし、そうであるにもかかわらず、この二つの形態の前駆的形成は、それらが融合することで、行為の因果的決定の考えを産み出してしまう。すなわち、行為を引き起こす力(つまり努力)は自由な自発性として感じられる(第二の前駆的形成)にもかかわらず、その力の観念が自然のなかに移されると、必然性の観念(第一の前駆的形成)に染まりきって心のなかに帰ってくるため、力と行為の関係も結局、必然的だとされることになる、とベルクソンは言う。
・心的状態による行為の因果的決定という決定論者の最後の主張に対するベルクソンの以上のような議論は、おおむね説得的であり、基本的に納得できるものとして受け止められた。ただ、前駆的形成の第二の形態が心の領域だけでなく、自然の領域にまで適用されると、物質もまた心的な力をもち、結果の観念を内包することになるが、このような物活論に対して、ベルクソンはそれを物質に「内的な質」と「空間的拡がり」の両方を認める矛盾した説だとして批判するのにたいし、質と拡がりは両立しうるのであり、それゆえ物活論は擁護できるという考えも出された。
◆所感(信原)
事象の間に法則が成立するためには、同じタイプの事象が繰り返し出現しうること、および異なるタイプの事象の間に規則的な継起性があること(Aタイプの事象が生じれば、必ずBタイプの事象が生じること)が必要である。物的な事象はこの要件を満たすが、心的な事象はそうではないとベルクソンは言う。心的事象は異なる人において異なる時刻に出現すれば、異なる脈絡において(つまり他の異なる心的事象や異なる記憶とともに)出現するから、必ず異なる事象となる。つまり、心的事象に関しては、同じタイプの事象が二度出現することはありえず、それぞれの事象が独自の唯一的なものであり、タイプを形成しない。なぜなら、心的事象は他の心的事象から独立してそれ自身の本性(「自性」)をもつものではなく、他の心的事象と相互浸透して自性を欠くもの(「無自性」)だからである。
ベルクソンが心的事象に法則性を認めず、それゆえ心的事象による行為の因果法則的な決定性を認めないのは、心的事象をこのように無自性(すなわち「縁起所生」)のものと捉えるからである。しかし、無自性なのは心的事象だけであろうか。物的事象もまた無自性なのではないか。仏教では、心的、物的の区別なく、いっさいの事象が縁起所生であると説くようだ。そうだとすれば、物的事象も無自性であり、それゆえ物的事象もタイプを形成せず、法則性を有しないのではないか。
ベルクソンは物的事象にはタイプと法則性を認めているが、厳密な意味でそれらを認めているのかというと、必ずしもそうではないようにみえる。物的事象にも質的な面があり、それらを完全に剥ぎ取って、物的事象を純粋に空間的なもの(数学的な方程式で表現できる純粋に等質的なもの)とみなすことによってはじめて、物的事象は厳密な意味でタイプと法則性をもつようになる。そしてそのとき、物的事象の間の法則的関係は数学的な演繹関係となる。つまり、流れる時間というものを欠いた永遠における論理的関係となる。原因と結果の間の法則的関係は、原因に続いて結果が起こるという時間的な継起関係であったはずだが、そこから時間性が剥奪されるのだ。ベルクソンは、物的事象がこのような時間性を剥奪された法則性を厳密な意味でもつと言っているわけではなく、あくまでも近似的にそれをもつと言っているにすぎない。つまり、物的事象は、それが完全に空間化されれば、厳密な意味でタイプと法則性をもつようになるが、そうでなければ、つまりそのままでは、近似的な意味でそれらをもつにすぎないのである。
このように見ることができるとすれば、物的事象についても、ベルクソンは心的事象と同じく、根本的には無自性(縁起所生)という見方を取っていることになる。つまり、物的事象にタイプと法則性を認めるといっても、厳密な意味でそれらを認めるわけではなく、厳密な意味で言えば、物的事象もタイプと法則性を欠くのである。
出席者:信原、七沢、染谷、大家、原島、鈴木、米倉
・今回は『時間と自由』第三章の「真の持続と予見」の節(pp.219-237)を読んだ。
・この節は、天文現象が予見可能であるのにたいし、意識的行為(自由な行為)は予見できないことを論じているが、天文現象と意識的行為の違いがあまり明瞭に示されていないため、かなりわかりにくい内容であった。
・本節は前半と後半に分かれており、前半では、他人の行為を予見するのに二つの方法があるとされる。一つは、他人の意識状態をすべて同じように自分で抱いていてみるという方法であり、もう一つは、他人の意識状態をそのイメージ(知的記号ないし観念)に置き換えるという方法である。前者の方法では、他人の行為をそれに先立って知ることにならないから、予見ということにならないとベルクソンは言う。また、後者の方法では、イメージはそれを抱く人に直接作用しないので、その強さを示す量的な指示を加えなければならず、そのためには終局の行為を前もって知っていて、それへの寄与分を決定できなければならない。このように終局の行為にたいする各意識状態の寄与分を示す指示があれば、そこから終局の行為を導き出すことはたしかに可能である。しかし、そのためにはそもそも前もって終局の行為を知っていなければならない。それゆえ、やはり終局の行為を予見することにはならないとベルクソンは言う。
・しかし、なぜ終局の行為にたいする各意識状態の寄与分を決定するためには、終局の行為を知っていなければならないのだろうか。私たちは、過去における意識状態と行為にかんする観察から、どのような意識状態が生じれば、どんな行為がその結果として生じるかを示す法則を立てることができ、その法則にもとづいて、いま、かくかくの意識状態が生じているということから、しかじかの行為が起こることを導出できるのではないだろうか。そのさい、起こるはずの行為を前もって知っている必要はない。過去の観察から関連する法則を立てることさえできればよい。ベルクソンはなぜこのような法則にもとづく行為の予見を認めないのだろうか。彼はそもそも法則による行為の予見の可能性を論じることさえしないが、それはなぜだろうか。この疑問は解消できなかった。
・本節の後半では、天文現象の予見が時間の縮約によって可能であるのにたいし、意識的行為の予見はそのような時間の縮約ができないために不可能であることが論じられる。たとえば、遊星の軌道を予見するうえで重要なのは、遊星の運動の継起的位置だけで、位置と位置の間の時間は問題にならないので、その時間を短縮することで、遊星の位置を実際にそこに遊星が到達するよりも早く見ることができる。こうして遊星の軌道を予見することが可能になる。それにたいして、意識的行為の場合は、たとえばそれに先立つ感情を十全に測定するためには、感情の各段階だけでなく、段階と段階の間の時間も重要となるので、その時間を短縮することができない。それゆえ、意識的行為を実際にそれがなされる前に知ることはできない。こうベルクソンは論じる。
・しかし、なぜ天文現象については、そのような時間の縮約が可能なのに、意識的行為の場合は不可能なのだろうか。天文現象と意識的行為の間にはどのような違いがあるのだろうか。ベルクソンは、天文現象は時間の縮約によって予見が可能であり、意識的行為は時間の縮約ができないため予見が不可能だと言うだけで、なぜ天文現象と意識的行為の間にそのような時間の縮約の可能性にかんして本質的な違いがあるのかを語らない。それはベルクソンにとって天文現象のような物理的事象と意識的行為のような心理的事象の間の根本的な違いであり、それ以上説明を要しないものかもしれない。しかし、本当にそうなのだろうか。この点についても、疑問は払拭できなかった。
◆所感(信原)
ベルクソンは、天文現象と意識的行為の間には、それらが生じるプロセスの時間的な縮約可能性にかんして本質的な違いがあると言う。しかし、それらの間には、そのプロセスの複雑さにかんして程度の違いがあるだけではないだろうか。天文現象は関連する要因が少なく、それらの要因の間の相互作用も少ないような比較的単純なプロセスによって生起する。それにたいして、意識的行為は非常に多くの要因がじつに込み入った仕方で絡み合う極度に複雑なプロセスによって生起する。しかし、これらのプロセスはたんにその複雑さの程度が違うだけで、それ以外に予測に関連する重要な違いは存在しないように思われる。たしかに天文現象は物理的なプロセスによって起こり、意識的行為は心理的なプロセスによって起こるが、この違いは予見にかんして何か本質的な違いをもたらすわけではなく、心理的プロセスはふつう物理的プロセスより複雑なため、心理的プロセスの結果は物理的プロセスの結果より予見が難しいということにすぎないのではないだろうか。つまり、本質的な違いではなく、たんに程度の違いにすぎないように思われる。
また、ベルクソンは、意識的行為は総じて予見不可能だと言っているように思われるが、はたしてそうであろうか。私は今朝、起きたとき、歯を磨いたが、この行為は朝、起きたときに歯を磨くという私の歯磨きの習慣を知っている人なら、誰でも予見できたであろう。この行為はけっして無意識的な行為ではない。私は意識して歯を磨いているし、さきに朝食を食べたいと思えば、歯を磨くのをやめて朝食を食べる。私はけっして朝、起きると、自動的に歯を磨くわけではない。しかし、それでも、私の歯磨きの行為は予見可能である。
私たちの日々の行為は、その多くが習慣的な行為であり、決まり切ったルーティンである。しかし、だからといって、自動的で無意識的な行為だというわけではない。やめようと思えば、またやめるべき理由があれば、いつでもやめられる。このような意識的な行為は、習慣的であるがゆえに、予測可能である。ベルクソンはこのような行為についてどう言うのだろうか。それは意識的行為でないと言うのだろうか。それとも、予測がある程度の確率で当たるだけで、本当の意味で予測可能なわけではないと言うのだろうか。いずれにせよ、あまりもっともらしくないように思われる。
ベルクソンが予見不可能な意識的行為として念頭に置いているのは、おそらく極度に複雑な心理的過程を経て遂行される行為(いわば実存的な決断によってなされる行為)であろう。たしかにこのような行為は予見がきわめて困難だ。しかし、このような行為ですら、それが原理的に予見不可能だと言うためには、それが生起するプロセスに物理的プロセスとは原理的に異なる重要な特徴がなければならない。それがまさに時間の縮約不可能性だと言われるかもしれないが、なぜそのような行為を生み出すプロセスは時間的に縮約不可能なのかとやはり問わずにはいられない。心理と物理との根本的な違いは何なのか。この問いが否応なく頭をもたげてくる。
出席者:信原、七沢、染谷、鈴木、原島、大家
・本読書会も、一年に一度は対面で行おうということになり、それならせっかくだから、1泊して合宿しようということになって、山梨県北杜市の「白州・尾白の森 名水公園 べるが」で合宿をした。一日目に第9回の読書会、二日目に第10回の読書会を行った。
・第9回は『時間と自由』第三章の「リード文、物理的決定論、心理的決定論」pp.169-195を読み、リード文と物理的決定論は大家さんが、心理的決定論は染谷さんがレジュメを担当して説明し、それに基づいて議論を行った。
・第10回は『時間と自由』第三章の「自由行為、真の持続と偶然性」pp.195-219を読み、自由行為は原島さんが、真の持続と偶然性は鈴木さんがレジュメを担当して説明を行い、それに基づいて議論した。
・第9回と10回はいずれも自由と決定論をめぐる哲学的問題を扱っており、ベルクソンは従来の自由の擁護者と反対者の双方に共通の前提を暴き出し、それを批判することで、自由についての独自の見方を提唱している。すなわち、自由の擁護者と反対者はいずれも行為へと至る心理的過程をその最中で捉えようとするのではなく、行為が終わった地点から振り返って捉えようとする。従って、過程ではなく、その軌跡(痕跡)を捉えようとしているにすぎない。自由の擁護者はこの軌跡を二つの選択肢が枝分かれしたものとして図示し、意思決定をその二つの選択肢の間の逡巡として描く。そしてどちらの選択肢を選ぶことも可能であったから、行為は自由だとする。これに対して、自由の反対者は、二つの選択肢があるように見えても、実際に選んだ選択肢を選ぶことになっていたのであり、それゆえ異なる行為に至る二本の道(選択肢)があるのではなく、実際に行った行為に至る一本の道があるだけだとする。
・このような従来の見方に対して、ベルクソンは行為へと至る心理的過程の最中に視点を置いてどのような過程が進行しているのかを見ようとする。そうすると、意思決定者にはあらかじめ複数の選択肢があるわけでも、一つの選択肢しかないわけでもなく、またそのような選択肢に有利ないし不利な理由があらかじめあるわけでもない。そうではなく、自我のさまざまな要素が相互滲透しながら全体的に変化していき、やがて一つの行為がなされる。そしてそのようにして全人格的になされた行為こそが自由なのだとベルクソンは言う。つまり、自由な行為とは、選択によってなされた行為ではなく、熟した果実が地面に落ちるように、自我の内的活動からおのずと現れ出てくる行為だというわけである。
・このようなベルクソンの自由の見方は、細部でいくつかの疑問が呈されたものの、基本的に参加者全員が深い共感を覚えるものであり、その含意をめぐって、いろいろ各自の体験も交えながら、活発な議論が行われた。
・次回は『時間と自由』第三章の「真の持続と予見」pp.219-237を読む。
◆所感(信原)
私たちはふつう、自由については、自由か、自由でないかのいずれかだと考えている。つまり、二者択一だというわけである。しかし、ベルクソンは、自由は程度問題であり、完全に自由だということはあまりないと言う。これはなかなか興味深い指摘だと思った。
自由は程度問題だという考えは、自由に関するベルクソンの独自の見方から直接的に帰結する。ベルクソンは、自我の諸要素が相互浸透しながら全体論的に変化していき、やがておのずと行為へと結実するとき、その行為は自由だと言う。自由な行為とは自我の一部によってなされるのではなく、全人格的になされる行為だというわけである。そうだとすれば、自我がどれほど統合的かに応じて、自由の程度も異なることになる。自我が完全に統合されており、そのような自我の諸要素が相互浸透しながら全体論的に変化していって行為に至るとき、その行為は完全に自由である。しかし、自我があまりよく統合されておらず、奥底の自我と深く結びついていない表層の自我によって行為がなされるとき、その行為はあまり自由ではない。つまり、自我がよく統合されているほど、行為は自由であり、そうでなければ、その統合の欠如の程度に応じて、自由ではない。
こうして自由の問題は、ベルクソンにおいては、自我の統合の問題(人格の統一性の問題)と不可分に結びつく。自由はけっして理由に基づいて行為を選択して行為することでも、何もないところで端的に行為すること(無からの創造)でもない。統合した自我が全人格的に活動しておのずと行為に行き着く。それが自由である。これは選択の自由を自由だとする通常の見方に対して、きわめて根本的な見直しを迫る重要な考えであろう。
出席者:信原、七沢、染谷、鈴木、米倉
・今回は、『時間と自由』第二章の最後の部分、内的多様性、真の持続、自我の二つの様
相(pp.146-167)を読んだ。
・ベルクソンは質的多様性が空間に投影されて量的多様性に変質されてしまうことを指摘
し、そのような変質した質的多様性をそうでない本来の質的多様性に戻し、その独自のあ
り方を力説するが、そのさいは、質的多様性と量的多様性はそれぞれ独立した別個の多様
性であるように思われた。ところが、「内的多様性」の節では、量的多様性が成立するた
めには、質的多様性が必要だと言う。すなわち、諸単位を空間に並べて数えるとき、同質
的な基底の上でなされる諸単位の加算と並んで、心の深奥では、これら諸単位を一体化す
る有機化が続けられているのであり、そうでなければ、量的多様性の観念を形成できない
と言うのだ。これは驚きであった。質的多様性と量的多様性は相互に独立かと思いきや、
量的多様性は質的多様性に依存すると言うのである。しかし、そうだとすれば、量的多様
性が質的多様性に侵入して質的多様性を量的多様性に変質させるということは、いったい
いかにして可能なのだろうか。ベルクソンにおける2つの多様性の関係は謎が深そうであ
る。
・ベルクソンは、型破りな小説家がいても、言葉によって織り上げられた感情の諸要素の
相互外在的な併置を打ち破って、相互に浸透しつつ根本的な不合理を示す感情の質的多様
性を描く小説を書くことはできないだろうと言う。というのも、そのような小説もまた言
葉で書かれるものにほかならないからだ。これに対して、例えば、ジェイムズ・ジョイス
のフィネガンズ・ウエイクのような小説なら、そのようなことが可能ではないだろうかと
いう意見が出た。ベルクソンはおそらく、言葉として日常の言葉、社会生活を可能にする
言葉を念頭に置いており、そうでないような言葉のことは考えていなかったのであろう。
しかし、詩的に用いられる言葉なら、言葉であっても、量化されない質的多様性の純粋な
あり方を示すことができるのではないだろうか。ここで、詩的な言葉はじつは言葉ではな
いのではないかという意見も出てきそうだから、この問題は言葉とは何かという問題をも
巻き込んだ巨大な問題になりそうだ。
・次回は、9月18日、19日にベルガで合宿を行い、第三章に入る。18日は物理的決定論、
心理的決定論、19日は自由行為、真の持続と偶然性を扱う。なお、当初、予定していた9
月1日の読書会は、この合宿に代えるため、行わない。また、10月の読書会も行わず、合
宿後は11月から読書会を行うこととし、その日程は9月に入ってから決定する。
◆所感(信原)
ベルクソンは、一連の同一的な諸項の中では、各項が意識に対して二重の相をとると言
う。すなわち、①私たちが外的対象の同一性に思いを馳せることからくる、対象それ自身
と常に同一的な相と、②項の付加が全体の新たな有機化を引き起こすことに由来する特殊
な相である。そしてこの二重の相において、②の有機化の相が①の対象と同一的な相の侵
入を受けて、有機的な全体がいくつかの同一的な段階に切断され、等質的時間が成立する
と言う。
だが、「外的対象の同一性に思いを馳せる」というのはどういうことであろうか。また
、そこから現れる「対象と同一的な相」とは何であろうか。ベルクソンは、このことに関
連すると思われる事柄として、一連の鉄槌の打撃音を聞くとき、私たちは「同一の客観的
原因が作用していることを知っている」と言う。また、「表面的自我は外的世界に触れて
いるため、その諸要素が相互に外在的である」と言う。
こうした叙述からすると、ベルクソンは、私たちが物事を捉えるとき、私たちは同一的
な対象が併置される客観的な外的世界をあらかじめ知っており、その知によって物事が同
一的な対象の併置として現れると言っているように思われる。しかし、そうだとすれば、
私たちはどのようにしてそのような外的世界を知るに至ったのであろうか。むしろ、物事
が同一的な対象の併置として現れるということから、外的世界がそのようなものだという
ことを知るに至ったのではないだろうか。
また、外的世界と等質的時間の関係も大いに疑問である。ベルクソンは、外的対象と同
一的な相の侵入を受けて、有機的全体の相がいくつかの同一的な段階に切断され、等質的
時間が成立すると言うが、この等質的時間は外的世界とどう関係するのであろうか。外的
世界とはまさに等質的時間の中で同一の物体が無限に分割可能な運動をする世界ではない
のだろうか。ベルクソンは、一方では、私たちがあらかじめ外的世界を知っていると言い
つつ、他方では、有機的全体の分割によって外的世界(等質的時間)が成立すると言って
いるように思われる。しかし、この二つは両立しがたいのではないだろうか。外的世界と
等質的時間はいったいどのような関係にあるるのだろうか。この謎はとても深いように思
われる。ベルクソンは私たちにとって外的世界がいったいどのようなものであるかをもっ
と主題的に語る必要があろう。
出席者:信原、七沢、染谷、大家、鈴木、米倉
・今回から米倉さんが参加することになった。今回は、『時間と自由』第二章の2回目で、持続は測られうるか、エレア学派の錯覚、持続と同時性、速度と同時性(pp.127-145)を読んだ。
・130ページに「私たちは持続をそのその本然の純粋さで表象するのに、信じがたいほどの困難さを感じる。そしてこのことは、私たちだけが持続するのではない、ということにおそらく由来するであろう。」とあるが、この中の「私たちだけが持続するのではない」という考えがあたかもベルクソンの考えであるかのように書かれているのは、おかしいのではないかという意見が出た。たしかに、意識だけが持続し、空間の中の物理的な事物は持続しないというのがここまでのベルクソンの論述であり、そこからすると、「私たちだけが持続するのではない」というのは、ベルクソンの考えだと言い難い。従って、「私たちだけが持続するのではない」というのは、ベルクソンの考えでなく、一般の人々が日常的に抱く考えであり、そう解釈するのが適切ではないかということになった。
・アキレスと亀のパラドクスをベルクソンは運動の不可分性によって解決するが、たしかにそれはこのパラドクスに対する一つの重要な解決として高く評価できる。しかし、パラドクスの解決という点だけで言えば、微積(あるいは無限級数の和)による解決も十分解決になっているのではないか(すなわち無限を導入すれば、アキレスが亀に追いつくことになる)という意見が出た。たしかに微積による解決は運動を無限に分割可能なものとして扱っているので、ベルクソンからすれば、不可分性という運動の本来的なあり方を根本的に損ねることになるが、それでもパラドクスの解決という点では、十分解決になっているのではないか。微積は、パラドクスが問題にする事態(運動の無限の分割)をいわば同じ土俵のうえでパラドクスに陥らない仕方で扱うことによって、パラドクスを解決していると言えるのではないだろうか。そうだとすれば、ベルクソンは、微積による解決、それゆえ運動を無限に分割するという操作にも、それなりの評価を与えていいように思われるが、どうであろうか。
・宇宙のすべての物体の速度が2倍になっても、物理方程式は変わらないが、持続は変わるというベルクソンの主張は、いったい何を言っているのかわからないという質問が出た。
宇宙のすべての物体の速度が2倍になっても、物理方程式は変わらないというのは、速度が2倍になることがじつは物理的には意味のないことだということを表していると思われるが、そうだとすると、そのような物理的には無意味なことが生じるときに、それでも持続が変わるというのは、いったいどういうことなのだろうか。持続と空間を峻別するベルクソンからすれば、空間的には同じことが起こっていても、持続には違いがあるということが十分有意味なことであろうが、空間的な出来事のあり方が持続のあり方に関係するとすれば、空間的なあり方が同じなのに持続に違いがあるというのは理解しがたいことであるように思われる。
・物体の運動を定義するには、意識のある時点で物体が空間のどの位置にあるのかを特定できさえすればよく、ある時点から別の時点までの物体の移動それ自体を問題にする必要はないとベルクソンは言うが、たしかに意識の時点(時刻、瞬間)が意味をなすなら、そのとおりであろう。しかし、はたしてベルクソンにとって、意識の時点というようなものが意味をなすのだろうか。ベルクソンが描く意識の持続においては、意識は始まりもなく終わりもなく、ただ過去が現在へと浸透しつつ雪だるま的に増大していくだけのものではないだろうか。意識の時点に意味をもたせるには、意識の現在時点に意味を与え、そのためには意識と物質との接点を問題にする必要があるのかもしれない。しかし、ベルクソンが描く持続は物質と接点をもちうるのだろうか。このような大きな疑問が浮かんでくる。
・次回は、8月4日(月)10:00-12:00に行い、内的多様性、真の持続、自我の二つの様相(pp.146-167)を扱う。
◆所感(信原)
ベルクソンは、運動体が通過した空間とそのような空間を通過する運動そのもの(運動体がある位置から別の位置へと移動する作用)を区別し、運動そのものは「意識的な傍観者にしか現実性をもたない」ものであり、「空間を逃れる」もの、「心的総合であって、したがって拡がりをもたない心的過程」(p.134)である、と言う。たしかに運動体が通過する空間とその空間を通過する作用を区別することはできよう。しかし、それらを区別したからといって、運動そのもの(運動体の通過作用)が意識にとってのみ存在する心的過程だということになるのだろうか。運動体は運動そのものを備えており、だからこそ空間を移動するのではないだろうか。つまり、運動体が運動そのものを備え、その運動そのものが空間の移動という空間的性格を備えているのではないだろうか。
運動そのものと通過した空間を峻別して、運動そのものに空間的性格をいっさい認めようとしないベルクソンの見方は、質と量を区別して、質にいかなる量的性格も認めようしない見方と軌を一にするように思われる。しかし、そうだとすれば、質と量の関係に関して、質が量的性格をもつこともあるのではないかという疑問が、今度は運動そのものと空間の関係に関して、同種の疑問として浮かび上がってくるだろう。腕が痛いとき、痛いという感覚的な質が腕に広がってのであり、それと同様に、運動そのものが空間の移動という空間的な拡がりをもつのではないだろうか。
もしそうでないとすると、運動体がある位置から別の位置に移動するということも、じつは心とは独立に純粋に空間において生じることではなく、心の働きによって仮想的に造り出されたものということになってしまうのではないだろうか。運動体がある位置Aから別の位置Bに移動するというとき、それは同じ運動体がAからBに移動するということである。たんにある時点である運動体がAにあり、別の時点である運動体がBにあるというだけでなく、それに加えて、これらの運動体は同一でなければならない。しかし、Aにある運動体とBにある運動体が同一であるということに意味を与えるためには、それらを同一の運動体として把握することが可能でなければならないであろう。そしてそのためには、AからBに移動する運動体を同じ運動体として把握し続ける心の作用が必要であろう。こうして運動体がAからBに移動するということも、じつは純粋に空間のなかで生じることではなく、空間のなかで生じることとして心によって仮想的に造り出されたものにすぎなくなってしまうだろう。
出席者:信原、七沢、染谷、大家、鈴木
・今回から『時間と自由』の第二章に入り、数的多様性と空間、空間と等質的なもの、等
質的時間と具体的持続(pp.93-126)を読んだ。
・差異と同一性は哲学の重要な問題であるが、ベルクソンの場合、差異と同一性はどのよ
うに捉えられているのだろうか。この点について議論を行った。差異と同一性は、ふつう
二つのものについて、どの点で差異があり、どの点で同一性があるかという形で問題にさ
れる。従って、この場合、差異と同一性は同じ水準にあり、一方を問いうるとき、他方も
問いうる。つまり、差異は問いうるが、同一性は問えないとか、その逆はありえない。し
かし、ベルクソンによれば、感覚は、質の差異を問いうるが、質の同一性は問いえない。
感覚は質の違いによって異なるものに区別されるが、質が同じならば、同じ感覚であり、
二つの感覚について、同一かどうかを問題にしえない。しかし、感覚も、空間化すれば、
例えば、手の痛みと足の痛みを空間的に併置したり、昨日の歯の痛みと今日の歯の痛みを
空間化した時間の中に併置したりすれば、その同一性を問題にしうる。そしてそのときは
、それらの差異も問題にしうる。しかし、この差異は空間化される前のもとの質の差異と
は水準の異なるものである。感覚はその根源的な水準においては差異性しかない。これが
ベルクソンの差異と同一性の捉え方のようだ。
・ベルクソンは、感覚の質だけではなく、物理的な諸性質もそれ自体としては拡がりをも
たず、それらに空間が外から付加されるのであり、それゆえ空間は自己充足し、物理的諸
性質なしにも存続しうるものだと言う。そしてこの見方をカントの超越論的感性論での見
解、すなわち空間は現象に付与される直観の形式だという見解と同様のものとみなす。し
かし、空間は本当に空間性をもたない物理的諸性質に外から付け加わるものにすぎないの
だろうか。物理的諸性質は最初から空間性を帯びており、空間性と切り離せないのではな
いだろうか。そして感覚の質もまた、量的性格を帯びているのであり、量から切り離せな
いのではないか。少なくとも一部の感覚の質はそうではないか。この疑問は前回も提起さ
れたが、今回も再び提起された。ベルクソンの質と量の区別、持続と等質的空間の区別は
、それぞれを理念的に純化することによって無理やり切り離したものにすぎないのではな
いか。ベルクソンはそれらを無理やり切り離しておきながら、それらが常識や科学におい
て混同されるという倒錯的な非難を行っているだけなのではないか。このような根源的な
疑問がどうしても残る。
・次回は、7月7日(月)10:00~12:00に行い、持続は測られうるか、エレア
学派の錯覚、持続と同時性、速度と同時性(pp.127-45)を扱う。
◆所感(信原)
ベルクソンは、感覚に質のみを認めて、量を認めない。それゆえ、継起する音を聞いて
も、それらの音の感覚は記憶によって等質的な空間に併置されるのではなく、むしろ記憶
によって互いに浸透し合って全体的な質をもつ有機的全体を形成すると言う。しかし、感
覚は本当に、本来、空間性を帯びていないのだろうか。手の痛みは手にあるし、喜びや悲
しみは、手の痛みのように身体の特定の場所に位置づけられなくても、自分の頭や胸のあ
たりに位置づけられる。私の悲しみは足の先ではなく、胸のあたりにある。「この悲しみ
をどうすればよいのか」と自分の胸を指して語るのは自然だが、もし自分の足先を指して
語るなら、異様である。それは正気の沙汰でないか、あるいは何か特別な意味が込められ
ているのでなければならない。
私の感覚が私の身体に位置づけられるのは、そもそも私が私の身体のある辺りに位置づ
けられるからである。私の感覚は私において生じる感覚である。それゆえ、私のいるとこ
ろにある。そして私は自分の身体のある辺り(頭の辺りか、あるいは頭から胸に至る辺り
)におり、けっして私の足の先にはいない。それは私の視点が私の眼にあり、私の情動が
私の心臓や腸、胃などの内蔵に関係するからであろう。ともかく私は空間のなかに位置づ
けられ、それゆえ私の感覚も私のいる空間的な場所に位置づけられる。いやむしろ、私が
論理的に感覚に先立って空間的に位置づけられ、それに基いて感覚が空間的に位置づけら
れるというよりも、より正確には、私と私の感覚は論理的には一緒に空間的に位置づけら
れると言うべきであろう。
私と私の感覚は空間的な存在である。私の身体が空間的だというだけでなく、私と私の
感覚もそうなのだ。それは私の心もまた空間的だということにほかならない。ベルクソン
は感覚を量と空間から截然と切り離して、純粋に質的なものと捉えることによって、感覚
の本来の姿を捉えたと思っているが、それはかえって感覚の本性を見失っているのではな
いだろうか。感覚は質と量、持続と等質的空間が不可分に結びついたものである。そして
明らかにすべきは、質と量、持続と等質的空間がいかにして不可分でありうるかというこ
とではないだろうか。この問題は、心を物的なものと捉える物的一元論において、心がい
かにして物的なものでありうるかという問題とまったく同根の問題だと言えよう。そして
おそらくは、物体に色を認めるとき、物体の色がいかにしてその表面の光の反射特性(ロ
ックの第一性質)でありうるかという問題とも同根であろう。質と量の関係の問題は、心
と物質の関係、色と第一性質の関係という根源的な問題につながる。
出席者:信原、七沢、染谷、大家
・『時間と自由』の精神物理学、強さと多様性の箇所(pp.77-91)を読むとともに、今回が第一章の最後なので、第一章全体の振り返りも行った。
・ベルクソンは一貫して、感覚が質しかもたず、量をもたないと主張するが、私たちの日常的な感覚にはむしろ量も含まれているのではないかとの意見が出た。
・たとえば、ある面に次第に大きな量の光を当てていくと、次第に明るく見えるが、これは明るさの感覚において、明るさの質が次々と離散的に変わっていくだけでなく、明るさの量が変化している(より暗い量からより明るい量へ変化している)のではないか。つまり、私たちが抱く日常の感覚においては、質だけでなく、量も内在しているのではないか。
・また、このことに関連して、日常の感覚に量を認めず、質しか認めないのは、たとえば、エポケーによって自然的態度を停止したり、知覚の理論負荷性を否定したりするのと同じように、日常の感覚に本来、内在しているはずの量を無理やり排除しているのではないかという指摘もなされた。もちろん、自然的態度の停止が可能だとする立場や知覚の理論負荷性を否定する立場もありうるが、そうでない立場も少なくとも同等に有力であろう。そうだとすれば、日常の感覚が質だけでなく、量ももつという主張は、質しかもたないというベルクソンの主張に十分対抗できるだけの説得力をもっているのではないだろうか。
・さらに、ベルクソンの言う質だけの感覚というのは、ひょっとすると、量的規定が適用されるまえの「感覚」ではないかという指摘もなされた。日常の感覚は質と量をともに備えているが、質的規定だけが適用され、量的規定がまだ適用されていない「感覚」を想定することができるかもしれない。そのような「感覚」は、美が悟性のカテゴリーが適用される手前の、感性と構想力の戯れだとすれば、美に近いものだと言えるのかもしれない。しかし、そのような「感覚」が認められるとしても、それは日常の感覚とは次元が異なるものであり、その「感覚」が質しかもたないとしても、日常の感覚は質と量の両方をもつことが可能であろう。
・次回は、6月9日(月)10:00~12:00に行い、第二章の数的多様性と空間、空間と等質的なもの、等質的時間と具体的持続(pp.93-126)を扱う。
◆所感(信原)
ベルクソンは、物質的世界では「あらゆる現象、あらゆる物体が、性質的なものと延長的なものという二重の相の下に現れる」ということを認める。つまり、物的なものは質と量の両方をもつというのだ。したがって、質と量はけっして両立しないわけではない。しかし、ベルクソンは心的なものには質しか認めない。一見、心的なものにも量的な側面があるようにみえても、それは心的なものに伴う物的なものの量を心的なものの量として読み替えたにすぎないと言うのだ。
なぜ心的なものは質しかもたないとベルクソンは主張するのか。この問題を考えるには、なぜ物的なものが量だけでなく、質ももつということをベルクソンが認めるのかを考えてみることが役立とう。バナナは例えば、長さ30cmという量だけではなく、黄色いという質ももつ。しかし、この黄色いという質はいったい何であろうか。それは長さのような量とはどう違い、どう関係するのだろうか。
まず、疑問に思われるのは、黄色いという質は空間的に広がっているのではないかという点だ。バナナはその表面全体が黄色い。そうだとすれば、この黄色いという質はバナナの表面全体に広がっているのではないか。つまり、この質は広がりという量を備えているのではないだろうか。
これにたいして、黄色いという質自体には広がりがなく、その質をもつものに広がりがあるだけだという反論がなされるかもしれない。バナナが黄色いということは、黄色いという質がバナナの表面全体に広がっているということではなく、その表面のどの微小部分も黄色いということであり、その微小部分の集まりが広がりをもつにすぎないというわけだ。
たしかにそのように考えることも可能かもしれない。しかし、そうだとすると、また別の疑問が浮かぶ。黄色いという質が広がりをもたないとすると、それは空間的規定をもたない(ある場所にあるというようなものではない)ことになろう。そうだとすれば、それはいかにしてバナナという空間的規定をもつものに備わるのか。空間的規定をもたないものとそれをもつものがいったいいかにして相交わるというのだろうか。黄色いという質がある一定の場所にあるバナナに備わるためには、その質がその場所にあるという空間的規定をもたざるをえないように思われる。
物的なものが量だけでなく、質ももつというのは、質と量を厳格に区別するかぎり、よく考えてみれば、じつに不思議なことだ。物的なものは量しかもたないということであれば、まだ理解しやすい。つまり、心的なものは質だけをもち、物的なものは量だけをもつというのであれば、まだ何とか理解できるように思われる。
心的なものは質しかもたないと言うベルクソンは、本当は、物的なものは量しかもたないと言うべきであったのではないだろうか。質と量を厳格に区別するなら、心的なものが質しかもたないとすれば、物的なものは量しかもたないことにならざるをえないように思われる。じっさい、物的な世界には、色や匂いや味のような質はなく、長さや質量やエネルギーのような量しかないという見方もある。ベルクソンは、質と量の区別を心的なものと物的なものの区別に重ねて、心的なものは質だけをもち、物的なものは量だけをもつと言うべきであったのではないだろうか。
ただし、そうだとすると、今度はさらに、心的なものと物的なものがどう関係するのかという問題(すなわち心身問題)が生じる。どこまで行っても、ベルクソンの歩む道は途方もなく険しいようだ。
出席者:信原、七沢、染谷、原島
・『時間と自由』の表象的感覚、音の感覚、熱と重さの感覚、光の感覚の箇所(pp.54-76)を読んだ。
・今回も、さらにいくつかの感覚について、その質の違いが量の違いとして解釈されてしまうことが指摘され、そのような解釈がそれぞれの感覚に伴うどのような量的事象によって誘発されるのかが明らかされた。
・例えば、音の感覚は、私たちがある音を聞いたとき、それと類似の音を出そうとするので、それに必要な努力の大きさから、量として(つまり大きな感覚の音や小さな感覚の音として)解釈されることになる。
・ここで、音を聞くとき、おのずと類似の音を出そうとするとしても、そのようにすることは音を聞くのに不可欠だろうかという問題が提起された。他人の発話を聞くと、自分も唇を動かさずにいられない神経病者がいるとのことだが、音の感覚を得ることとその音を出そうとすることは本質的なつながりがあるのだろうか、それとも通常相伴うとはいえ、偶然的なつながりにすぎないのであろうか。言い換えれば、聞いた音を出そうとすることはその音の感覚を得ることにとって構成的なのだろうか。ベルクソンのここでの論述からは、この問題に対する回答は得られないが、感覚の成立に関する非常に興味深い問題であり、詳細な考察に値しよう。
・ベルクソンは感覚の質が感覚に伴う量的な事象によって量的なものとして解釈されてしまうと言うが、そのような解釈を通じて、じつは感覚は新たに量的性格をもつものとして定立されるのではないか。それはもはや感覚の質を誤って量として解釈してしまったということではなく、そもそも量的性格をもつものとしての感覚というものが新たに打ち立てられたのではないだろうか。
・これは、科学が私たちの日常的世界を科学的世界に変えていくのと同様ではないだろうか。科学の発展により、さらさらして透明なものであった日常的な水が水素と酸素からなる分子としての科学的な水に変えられ、さらさらや透明といった日常的性質はそのような分子構造から説明されるものとなる。むろん、科学的世界は日常的世界から構成されるものであって、科学がいくら発展しても、日常的世界そのものは変わらないという日常的世界アプリオリという考え方もあるが、そうではなく、科学の発展により、日常的世界のあり方も変わっていくと見たほうがよいのではないか、という意見が出された。
・さらに、そもそもベルクソンは感覚の質が誤って量として解釈されると言っているのではなく、感覚の量的性格を積極的に認めているのではないかという意見も出た。コンピュータビジョンは色を質的に捉えて量的に捉えないから、本当の視覚にならないのであり、本当の視覚には色の量的把握が不可欠だ。そうだとすれば、ベルクソンも色の感覚に量的なものを認めているのではないだろうか。これは重大な問題提起であり、今後、テキストを読み進めていくうえで、欠かすことのできない視点となろう。そしてベルクソンが質と量を区別するとき、彼の言う質とはいったい何なのかの正確な見定めが必要となろう。
・次回は、5月12日(月)10:00~12:00に行い、精神物理学、強さと多様性を扱うとともに、第一章全体の振り返りを行う。
◆所感(信原)
ベルクソンは質と量を区別し、感覚には質しかないと力説するが、本当にそうであろうか。音を聞くとき、音の大きく、あるいは小さく聞こえるが、この大きさは物理的な音(空気の波動である音)がもつ振幅の大きさであるとともに、それを感じ取った音の感覚の大きさでもあるのではないだろうか。つまり、音の大きさの感覚は、音の大きさという物理量の感覚であるとともに、音の感覚の大きさという心理量の大きさでもあるのではないか。そのように考えるのが私たちの日常的な音の感覚の理解だと思われるが、ベルクソンはそれを否定して、音の感覚がそれに伴う量的な物理事象によって誤って量的に解釈されたものだと言う。
なぜ彼はそれほど感覚に量的なものを拒絶しようとするのだろうか。それはおそらく、質を量として理解しようとする知性(科学)の働きに抗して、量とは異なる質の独自性、量的には捉えられない質の固有性を死守しようとするからであろう。
ところで、科学は質を量として把握することによって、あるいはベルクソン的に言えば、質に伴う量的な事象を見出してその量を測定することによって、量的法則(ないし相関関係)を打ち立て、物事の予測や操作の力を大いに高めてきた。それにたいして、質にこだわる学問(質を質としてその固有性を捉えようとする学問)は、質的科学などと称して、一部に野心的な試みが見られるものの、大きな成果を挙げているとは言い難いだろう。
そうであるにもかかわらず、なぜベルクソンは質にこだわり、質の固有性を死守しようとするのであろうか。知性のように質の固有性を無視すると、それによっていったい何が失われてしまうと考えているのであろうか。
ベルクソンにおいては、量の定義は比較的はっきりしている。大きな量は小さな量を含むものであり、要するに量とは単位量の数(単位となる量をいくつか含むか)である。このように量は等質なものの中で何らかの単位を設定し、その数で表現できるものである。これにたいして質はあまり明確に定義されていない。大きな音を聞くときと小さな音を聞くときとでは、物理的な音には量的な違いがあるが、それらを感じる音の感覚には量的な違いはない。そこには質的な違いがあるだけだ(つまり大きな音と小さな音は異なる質をもつものとして聞こえる)。ベルクソンはこのように述べるだけで、その質の違いとは何なのか、異なる質どうしはどのような関係をもちうるのかを述べていない。
感覚には量ではなく質しかないというベルクソンの主張を深く理解するためには、そもそもベルクソンが質をどのようなものとして捉えているかをもっと詳しく理解する必要があろう。これは今後、テキストを読み進めていくうえで、決定的に重要な視点となろう。
出席者:信原、七沢、大家、染谷、原島
・『時間と自由』の筋肉努力、注意と緊張、激しい情動、感情的感覚の箇所(pp.34-53)を読んだ。
・今回も、さらにいくつかのタイプの感覚について、その強さの違いとされるものがじつは質の違いであるのに、大きさの違いだと誤解される理由として、感覚に関わる身体的要素の数や感覚に含まれる心的要素の数に大小の違いがあるからだという指摘がなされる。
・たとえば、筋肉努力(筋肉に力を入れようとする努力)は、強くなるほど、多くの筋肉が関与するようになるが、それが努力の大きさとして誤って解釈されてしまう。
・注意の場合は、リボーによると、「注意は額頭部を収縮させる、この筋肉は⋯眉を引き寄せ、つり上げて、額に横皺を生じさせる⋯極端な場合には、口が大きく開かれる⋯きつく注意すると、唇を突き出して、一種のふくれ面になる」と言われ、注意が強くなるほど、多くの筋肉が関与するという指摘がなされる。
・同様に、激しい情動の場合は、例えば、ダーウィンは憤怒について、心臓の鼓動が速まり、顔が赤く(青白く)なり、呼吸がしづらく、胸がむかつき、鼻腔が震えて開き、身体全体が震え、声が変わり、歯をくいしばり(歯ぎしりし)、こうして狂乱的な行為へと駆り立てられる、と述べる
・ただし、ジェームズは憤怒の情動が抹消器官の感覚の総和だと主張するが、憤怒にはそのような感覚に還元できない心的要素(敵と戦うという観念=きわめて雑多な諸運動に共通の方向づけを与える観念)もあるから、そこまでは主張できないとベルクソンは言う。
・ところで、情動は激しさを失うと、それにつれて、抹消感覚が内的な諸要素(諸々の観念や追憶)に取って代わられるが、このような感情の強さはそれに伴う内的な諸要素の数によって推計される。
・感情的感覚の場合、快感や苦痛は、身体組織の中ですでに起こった運動や現に起こっている運動だけでなく、これから起ころうとしている自動運動も示している。ここで、過去や現在の身体運動はそれを翻訳する感覚のうちに存続しないため、運動として意識されないが、刺激に続いて起ころうとする自動運動は運動として意識される。それゆえ快感や苦痛の強さはこの起ころうとする自動運動についての意識にほかならない。
・ 刺激に続いて起ころうとする自動運動が快感や苦痛によって運動として意識されるとき、この自動運動とそれとは別の意志的運動の間での選択が可能になる。こうして自由な運動が可能となるのである。
・ベルクソンは抹消の身体運動そのものを感覚とよんでいるのかどうかがはっきりしないため、論述の解釈がしばしば困難になるが、そうよんでいると解釈することにした。この意味での感覚は広がり(大きさ)をもち、麻酔をかけて本人が「手に痛みを感じない」と言っても、手に痛みの感覚があることになる。
・ベルクソンでは、情動は心的状態と末梢身体運動の両方を含むが、質(非延長)である心的状態と量(延長)である末梢身体運動という相反するものがいかにして情動という一つのものの中に同居しうるのかという重大な問題が生じる。
◆所感(信原)
強さを増していく苦痛は、次第に響きを高めていく音階の一つの音ではなく、楽器の数が増えていくのが聴き取れるシンフォニーに比すべきだ、とベルクソンは言う。つまり、他のすべての感覚に基調を与える特徴的な感覚の内部に、意識は筋肉収縮や器官運動、抹消部位から発する多くの感覚を見分け(これらは苦痛の原因から逃れるための準備の運動だとされる)、それによって苦痛の強さが推計される、というわけだ。
しかし、意識が見分ける筋肉収縮や器官運動は広がりがあり、量であるのにたいし、意識状態そのものは広がりがなく、質にほかならない。そうだとすれば、質(非延長)である意識はいかにして量(延長)である筋肉収縮や器官運動を見分けるのか。そもそも質(非延長)はいかにして量(延長)と関わりうるのか。
ここで、意識の志向性が決定的な解決を与えれてくれるようにみえる。意識は何かについての意識であり、その何かは広がりのあるものでもありうる。眼の前にバナナが見えるとき、意識はバナナを捉えるが、意識によって捉えられるバナナは三日月型の広がりをもつ。しかし、そのようなバナナを捉える意識自体は広がりをもたないと考えることが可能だ。たしかに心にかんする物理主義的な見方をとれば、意識もまた物的な活動(脳の神経活動を中核とする活動)によって実現されるものであり、延長をもつことになる。しかし、そのような見方をとるのではなく、意識は延長をもたないと見ることも、とりあえずは可能であろう。
意識は質(非延長)であるが、それが志向する(すなわち表象する、表す)ものは量(延長)でありうる。そう考えれば、意識が筋肉収縮や器官運動を見分けるというのは、意識がそれらを表象するということであり、「表象する」とは何かというさらなる問題があるとはいえ、一応、「見分ける」ということはどういうことかが明らかになる。
さらに、意識が何かを表象するとき、その表象される何かはつねに存在するとは限らない。眼の前にバナナが見えても、そのバナナはじっさいには存在しないかもしれない(幻覚)。それでも、この意識はバナナについての意識であり、バナナをその表象内容として含む。したがって、バナナの意識は実物のバナナをその表象内容として含まないとしても、バナナを表象内容として含む。この表象内容に含まれるバナナがいったい何なのかは難しい問題であるが、少なくともそれは量(延長)をもつ。あるいは量(延長)をもつものとして表象される。そうだとすれば、バナナの意識は量(延長)をもつバナナをその表象内容として含むことになる。そして意識の表象内容は、外界の事物とちがって、意識そのものに内属するものであるから、表象内容に含まれるバナナはバナナの意識に内属する。こうして量(延長)も意識の表象内容として意識それ自体に内属するのである。
このように考えられるとすれば、意識が質(非延長)だというのは、意識の表象内容が質(非延長)だということではなく、そのような表象内容をもつ意識の表象媒体が質(非延長)だということである。非延長的な心的媒体(mental stuff)があり、その媒体によってバナナが表象されているというのが、バナナが見えるということである。このように考えれば、非延長的な心的媒体とはいったい何なのかという大きな問題が残るとはいえ、とりあえず質(非延長)の意識が量(延長)を表象するということがよく理解できるようになろう。しかも、それはベルクソンが言うように、量(延長)をもたない意識に誤って量(延長)が帰されるということではなくなる。そのような誤りが生じているのではなく、表象内容として量(延長)をもつ意識にまさにその量(延長)が帰されているのである。
ベルクソンは、意識が量(延長)を見分けるという事態を明示的に意識の志向性から説明しようとはしていない。したがって、志向性による説明がベルクソンが意図していたもかどうかは定かではない。むしろ、明示的に志向性(表象)をもちだしていないことからすれば、志向性による説明を意図していなかったのかもしれない。しかし、そうだとすると、意識が量(延長)を見分けるとベルクソンが言うとき、彼はいったい何を意味していたのだろうか。謎は深い。
出席者:信原、七沢、大家、染谷、原島
・『時間と自由』の序言、内包量と外延量、深い感情、美的感情の箇所(pp.9-34)を読
んだ。
・今回の箇所の核心は質と量の違いだった。質と量は異なるのだが、私たち人間には質を
量として捉えてしまう傾向があり、それゆえ「より強い感覚」とか「より強い感情」とい
った日常的な表現も生まれる。しかし、感覚や感情は質であり、大きさを比べて、大小を
決めることができるようなものではない。どんな感覚や感情も、それ固有の質をもつだけ
で、大きさの順に並べられるわけではないのだ。
・しかし、異なる質の感覚や感情には、それに伴う量的な差異がある。例えば、優美さの
感情は、最初は①他人の動きの中に感じられるある種の気安さやゆとりの感じであり、そ
こに②未来の動きを現在の動きのうちに見越す快感が加わり、さらに③自分が他人の動き
をやっているのだという肉体的共感が加わる。このように優美さの質的変化には、最初の
感覚に次々と新たな感覚が加わっていくという量的変化が伴う。そのため、質を量と混同
するという誤りが生じやすくなる。
・しかし、このように新たに加わる感覚は先の感覚に浸透し、それと融合して「全体論的
な全体」を形成する。つまり、全体から独立した諸部分の総和ではなく、全体に依存する
諸部分からなる全体を形成する。ベルクソンは「全体論的全体」という表現を用いていな
いが、言わんとするところはそれであるように思われる。この全体論的な全体のあり方が
まさに質である。それは全体を構成する独立した諸部分(そんなものはない!)の総数で
はなく、相互浸透する諸部分からなる全体のあり方なのである。
・今回は、質がなぜ量と混同されやすいのか、それにもかかわらず、なぜ質はあくまでも
量と異なるのか、という問題をめぐっておもに議論を行った。しかし、その他にも、自然
美は芸術美に先立つという見方が美的感情の理解を妨げるのだというベルクソンの見解な
ど、興味深い論点もあった。今後、折に触れて、議論していきたいテーマである。
・次回は、『時間と自由』の筋肉努力、注意と緊張、激しい情動、感情的感覚の箇所
(pp.34-53)を読む。
◆所感(信原)
質は量とは違う。質はそれに伴う量と混同されやすく、そもそも意識は質を量として捉
えようとする傾向がある。しかしそれでも、質はあくまでも質であって、量ではない。質
と量の違いを強調し、質が量と混同されるカラクリを解き明かそうとするベルクソンの論
述は、なかなか説得的であり、表現の巧みさもあってたいへん興味深い。
しかし、そうとはいえ、なお疑問が残る。例えば、よく晴れた日に雲一つない満天の青
空が見えるとする。どこを見ても青く感じられる。このとき、空全体の青の感覚は空のそ
れぞれの部分の青の感覚を含んでいるのではないだろうか。各部分の青の感覚はそれぞれ
独立であり、隣の部分が薄雲に隠れて白っぽい青に感じられるようになっても、元の部分
の青の感覚は変わらない。空全体の青の感覚はそのような各部分の独立した青の感覚の集
まりではないだろうか。そうだとすれば、全体の青の感覚は各部分の青の感覚より大きい
と言えるように思われる。
これにたいして、ベルクソンなら、各部分の青の感覚は相互に浸透し合って、全体論的
な全体を形成するのであり、それが空全体の青の感覚だと言うのであろうか。たしかにそ
のような相互浸透が起こる場合もあるだろう。しかし、そうではなく、相互浸透せずに独
立のままにとどまることもあるのではないか。
痛みが肩から腕に「広がって」いくとしよう。肩だけだったときの痛みより肩から腕に
「広がった」痛み全体のほうが大きいように思われる。肩の痛みは肩だけのときと腕にま
で「広がった」ときとで何ら変わらない。肩の痛みは腕の痛みの影響を受けない。そのよ
うな肩の痛みが腕にまで「広がった」のだ。このような痛みの量的拡大が起こることもあ
るのではないだろうか。
もちろん、肩の痛みが腕に「広がる」とき、肩の痛みと腕の痛みが相互浸透して不可分
の全体(全体論的全体)を形成し、全体の痛みの中に肩の痛みが独立したものとして含ま
れているとは言えない場合もあろう。しかし、つねにそうとは限らないように思われる。
ここでは、「混合」と「融合」を区別することが重要なように思われる。感覚に限らず
、一般に心的事象(感覚、知覚、情動、思考、意志など)は、複数のものが相互に浸透し
て全体論的全体を形成することもあれば、そうではなく、たんに寄り集まって独立的部分
(原子論的部分)からなる原子論的全体を形成することもある。浸透・融合する全体論的
部分からなる全体論的全体を形成するのが「融合」であり、独立した原子論的部分からな
る原子論的全体を形成するのが「混合」である。心的事象についても、融合だけではなく
、混合が起こることもありうるように思われる。
もっとも、混合は一見、そうみえるだけで、あるいはそう捉えてしまうだけで、じつは
融合なのかもしれない。心的事象は相互浸透しやすく、融合を起こしやすいというだけで
なく、必ず浸透し融合するのであり、原子論的な全体を形成することはありえないのかk
もしれない(心の全体論的性格)。いや、それどころか、心的事象だけでなく、すべての
存在は相互浸透するものであり、独立して存在することなどありえないのかもしれない。
このような森羅万象の「縁起観」が正しいのかもしれない。しかし、今回のベルクソンの
論述だけでは、そのような全面的な全体論的見方が正しいのかどうかは明らかではない。
今後の重要な検討事項である。
出席者:信原、七沢、大家、染谷、原島
・初回なので、顔合わせを行った。とくに、染谷さんと大家さんは、面識がなかったので
、二人には少し詳しく自己紹介をしてもらった。
・本読書会は毎月一回、行うこととし、2月は20日(木)10:00-12:00、3月は4日(火
)10:00-12:00とし、4月以降は3月に決めることにした。
・テキストは、『時間と自由』『物質と記憶』『創造的進化』『道徳と宗教の二源泉』を
順に読んでいくこととし、まず『時間と自由』(中村文郎訳、岩波書店)を一年くらいか
けてじっくり読んでいくことにした。レジメは作らず、各人が論点を用意して、それを皆
で議論するという方式で行うことにした。
・この読書会に参加するにあたって、それぞれの思いや動機、意気込みなどを語り合って
、各人のスタンスを共有した。
・情報という概念をめぐって少し議論がなされた。人間を情報処理装置とする見方を否定
する見解がある一方で、人間にとって情報はきわめて重要だとする見解もある。この一見
、対立する状況について、原島氏は生命情報と機械情報を区別する必要があり、機械情報
の基礎には生命情報があるという見解を示し、染谷氏は処理される情報よりも環境中にあ
る生態学的情報が根本的なものだという見解を示した。情報の概念については、今後の読
書会の中でも、折に触れて何度も議論がなされることになろう。
整えました。